PTA会長たるものは

2018/03/03
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 いまから数年前のPTA会長Oさんは
ひどく人気を博したそうだ。

 拙宅のすぐそばに位置する小学校である。
わたしは、その当時、この小学校の同窓会の
会長を務めていたし、
以前、PTAの会長の経験があったので、
PTA顧問という肩書であった。

 
 この人気のOさんとは、だから、しばしば
席を同じうすることもあったわけだ。


 Oさんは、きんじょの小学校の会長があつまる
会長会でも評判がよかったそうだ。

 
 O会長の二年間にわたる主張の
ほとんどは、「たいへんな仕事ならやめる」
という趣旨であった。

 その理由が「いまの時代では」である。

 いま時代は、主婦も働くひとが増え、
なかなか学校行事などには参加できない。
これからの時代は、できないことはできない、
と、はっきりと言い、PTA活動は縮小すべきだ、
ということらしい。

 いわゆるダウンサイジングがはじまろうとしていた。

 具体的には、数か月にいちど発行される新聞。
これを廃刊にしようと、運営委員会でそれが議題にあがった。

 「運営委員会のメンバーたるものは、
選ばれし者ゆえ、すべての決定権は、
この運営委員会にある」
と、当時の副会長(この方は女性)も言いだす始末。

 それ以外にも、あれが大変、これが面倒、
そういう意見が、運営委員会では飛び交ったそうである。

 そして、会長は、それを聞くや、
ならやめましょうとあっさりと結論をだす。

これなら人気も出よう。弱いものの味方みたいに。



 さて、PTA活動というものは、
参加メンバーの献身的なボランティアで成り立っている。

 そもそも、PTA活動など、社会学的にいえば、
幻想である。幻想であるけれども、
それが、現実に成り立っているのは、参加メンバーの
同意と承認によってのみ存続することである。

 この同意と承認がなければ、
PTA活動も、ひいては民主主義も、すべてゼロになる。

 あれが大変、面倒、それはあたりまえである。
なぜなら、べつにしなくてもいいことだからである。

 べつにしなくてもいいことであるが、
それが児童のためになるなら協力をする、
という共同体感覚があってもいいじゃないか。

 
 そもそも、教育とは共同体を守るという
発想から生まれたものではないか。


 PTA活動のなかにおいて、
そういった個人主義的な考量がまじりこむと、
ダウンサイジングはおろか、活動がまったくの「無」になってしまう。

 そして、この個人主義的発想は、
人びとの感情の劣化をともなっているので、
その個人主義は恣意性には富んでいるけれども、
説得性に大いに欠けるだけでなく、
出てくる結論もひどく情けないものと化するだろう。


 わたしは、この感情の劣化について、
否定するものでも卑下するものでもなく、
そういう感情の劣化は、あるリソースの配置によって
必然的に起こりうる結果だということは、
フランクフルターという学者の言説どおり、
いたしかたないことだとおもっている。

 が、しかし、劣化した感情であれ、
それに輪をかけて「ならやめましょう」という指向は
ただ、ニンゲンを「ただのダメ」にするだけである。

 ここは、ふんばれよ、と言いたくなる。
PTA活動は、「なにができない」かではなく
「なにができるのか」をかんがえる場だからである。

 年に四回ある、地域教育連絡協議会というものがあって、
わたしは、そこの委員に任命されており、
隣席したのは、O会長であった。

わたしは、その席で、
「入学式に、PTAの方が新入生の親子を
校門でお迎えできないものか」と提案した。

 新入生、つまり6歳になった子たちが、
親に手をひかれ、小学校の校門の坂をのぼってくるのだが、
そこには、日の丸が立てられてはいるものの、
だれひとり、迎えるひとがいない。

無人なのだ。

 もし、そこにPTA関係のひとが、
「おめでとうございます」と、心地よく迎えることができたら、
この学校は、そういう学校なのだという
新入時から保護者に意識されるじゃなぃか。
PTA活動のさかんな学校、いいじゃないか。


 わたしは、以前からそれをおもっていたから、
そう発言したまでだ。
 お出迎えは、たかだか1時間ほどだから、
交代ですればいいことだ。

と、それをもうしあげた直後、
O会長は、烈火のごとく怒りだし、こう言った。


「できませんね。いま、この場で、それ言うことですか」

「え、何怒ってるの」

「怒りますよ。いまの時代は、家庭の主婦も
仕事におわれたいへんなんです。
そんな余計な仕事ができるわけないじゃなぃですか。
なら、あなたの時代は、それをしていたんですか」

「いや、それに気づかなかったから、顧問として
もうしあげているわけです」

「もう、顧問制度もやめようとおもってますよ」

かれは、小刻みに震えながら語気強く語った。


 やはり、「時代」が主語となっていた。
そして、ついに「顧問制度も廃止する」と言いだした。

 ちなみにもうしあげるが、顧問制度の廃止など、
ひとりの会長が決定できるわけがない。


 わたしが危惧するのは、ひとの上に立つ人物が、
大上段からの物言いをすることである。

 つまり、大風呂敷をひろげて、
「いまの時代は」で語り出す。
あるいは、「ひととは」で言う。
または、「人間は」とか「人生は」とか。

 そして、けして「わたしは」とか「ぼくは」では語り出さない。

これは、大げさにもうしあければ、ポピュリズムにほかならない。
大衆扇動主義である。

 このポピュリズム的発言は、もっとも民主主義との対極にあって、
が、しかし、人びとを惹きつける要素も十二分に偶有する。

 いわゆる全体主義の構図がここにある。

全体主義の発生は、頭脳停止した民衆が、
ひとりの権威的な人物の言説によりかかるという図式であったが、
エーリヒ・フロムというひとの言説によれば、
没落中産階級が、みずからの没落をすなおに
受け容れられないため、そのはけ口を、
崇高なもの権威的なものによりかかる
という社会的構図があるという。

 頭脳停止ではなく、没落中産階級、つまり、
被害者意識が、全体主義を生み出すということだ。

 フロムはこれをサド・マゾヒズムとしてとらえ,
権威ある者への絶対的服従と
自己より弱い者に対する攻撃的性格の共生と説いた。

 では、権威ある者とはどういう者か。

 簡単である。主語を大風呂敷で語り出す、
ポピュリズム的言説である。

 PTA役員は、みずからすすんでされる方は
べつとして、おおむねは「あてがいぶち」である。

 何年かにいっぺんやってくる「お役目」とおもっている。
(たまに、権威的であると誤解している馬鹿な副会長もいたが)
それは、とりもなおさず、被害者意識がどこかに
底流しているはずなのだ。

 そこに、そんなO氏の、ポピュリズム的言説が
語り出されたら、みな、それに服従するではないか。

 ここに、PTA役員会の全体主義的潮流が
構造的に生まれるわけである。

 わたしが危惧するところはこの一点につきる。



 いま、会長もかわり、また新たな会長さんが、
来年度から活躍するだろうが、ぜひとも
行事をつぶさずに、できるとこはなにかをさがして
大いにPTA活動を盛り上げてもらいたいとねがうものである。

 なんでもかんでもやめる方向ではなく、
民主的にできることをさがし、みなで話しあい、
共同体感覚をもって活動してもらいたいとおもう。




ちなみに、廃刊になろうとしていた新聞は、
校長先生からの懇願もあって
いまも、なおつづけて発刊されている。