地域教育連絡協議会

2018/03/11
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 地元の小学校の「地域教育連絡協議会」に

出席する。そもそも「協議」とあるのだが、

なにひとつ協議らしきものはなく、ただのお茶のみ話で、

べつに副校長が、われわれの意見を

メモとりするわけでもなく、

それが行政に直通で報告されるわけでもなく、

そういう時間を共有することが、つまりは、

学校が地域と密に連絡しあっているという

形骸化した「形作り」に協力しているだけなのだと

わたしはおもいながら出席している。

 それでも、すこしは有意味だとおもいつつ。

 

 そこで、ただひとつ知りえたのは、

道徳の時間などの時間配分は

学校側に裁量権があって、三通りくらいの

選択が許されているらしい。つまり、

一時間を50分にするか、60分にするか、

90分にするかである。

 すべてがトップダウンではないのだ。

 

 ただ、教育委員会からのカリキュラムへの指示は

しっかり受け取るから、現場の自由裁量にも限界がある。

 

 フィンランドなどは、教育庁が各学校に

その運営や指導方針をまかせ、換言すれば

積極的「丸投げ」なのであるが、

ぎゃくに、それによって個性溢れる

学校教育が運営され、世界に冠たる教育国になったのは、

周知の事実である。

 

 日本ではそれが許されない。日本の官僚は、

「国民は、たとえ公務員でも無能である」という考量で、

すべてのシステムは作動しているから、

上からの命令を下がすなおに受け容れるという

図式になっている。

 

 農民であってもそうである。

 

 農家というものは、本来は、いつ種まきをするか、

いつ収穫するか、いったい規模はどのくらいにするか、

その裁量権は、個人に任せられるべきもので、

そういう意味では、デザイナーなのであるのだが、

そういう要素はすっかり削ぎ落とされ、

国がどかどかっと介入し、やれ、減反しろとか、

ああせい、こうせいと指導がはいる。

 

 これでは、牛と牛飼いの構図である。

 

 これが、もっとひどくなると全体主義国家に

なるのであるが、日本はその瀬戸際で

右往左往しているというところである。

 

 ただ、個人的デザイナーの要素は

すっかり消滅したという事態は依然かわりない。

 

 宮台真司さんに言わせれば、いまの官僚も

くそだらけとかおっしゃっているが、

そのくそだらけに、下層下位の人種が動かされている

ということになる。

 

 だれしも、権力のもとでは、その権力の傘下にあって、

平穏に暮らしたいとねがう。ただ、その権力とは

いかなるものかといえば、資本主義体制で作り上げてきた、

不可逆性のシステムのなかの権力にほかならない。

 

 このシステムが崩壊すれば、いまの権力も

崩壊するかもしれない。(なっていないのでわからないけれども)

 しかし、まちがいなくいまの資本主義システムは

崩壊の一途をたどっているはずである。

 なぜなら、現代人に「夢」がなくなっているからである。

将来への希望より、「いま」あるいは「あした」を

どう生きるか、そんな卑近なロケーションを見回して、

とりあえず、やっと生きられた、というささやかな有能感で、

生きているひとが多いのではないか。

 

 社会の疲弊が、われわれの視野を狭めさせたのだ。

 

 近代社会は、資本主義が人びとを豊かにするとか

議会制民主主義が機能しうるとか

フランス革命いらいの理念の「自由、平等、友愛」が

ひとを幸福にするとか、ある意味では、

それは「そうなるはずだ」という旗印のもと、

つまりは建前の社会であったのだが、

それがどうも「うまくゆかないじゃないか」という

建前論の崩れに、トランプ政権のような邪悪さや、

オウトライト言説が生まれたといってもよいわけで、

そんな疲弊感はだれしも抱いている感覚なのでは

ないだろうか。

 

 こういう、「だめだなぁ」というおもいを

フランスの社会学者、エミール・デュルケームは

「アノミー」と呼んだ。

 社会の規範や道徳の崩壊による社会現象をいう。

 

 それにともない感情の劣化ももんだいとなっている。

共同体感覚の欠落もそうだ。

感情の劣化については、疲弊した資本主義体制のなかに

生きていると必然的に、それが起こりうると、

そう説いたのは、フランク・フルターである。

 つまり、ある感情の劣化は、あるリソースの配置によって

必然的に起こるということである。リソースの配置とは、

衰退した資本主義をかんがえれば容易である。

 

 共同体感覚の欠落は、個人主義の台頭によって

起こりうる必然性である。

 

 それは、アノミーの必然性といってもよい。

 

 高度資本主義社会においては、

個人のポジション取りに優先順位があり、

どのポジションを取るか、そしてそのポジションを

取れば、それを死守することに専念する、

というのが現代である。

 

この言説は、内山節氏に詳しいのだが、

どの学校に入るかがもんだいであり、

その学校の教育方針は二の次である。

 

 どの会社に入るかがもんだいであり、

その会社の経営理念は二の次である。

 

 すべては、みずからのポジション、

「場」を求めてのことであり、

その個人主義的発想に共同体に対する

おもいやりは、入り込む余地があるわけない。

 

 そういう社会にあって、道徳観念が

芽生えるということは稀有のことなのかもしれない。

 

 

 ほんらいは、道徳的な教えは幼少期に

家庭内でまなぶものである。

 ようするに「身体化された文化資本」が

要求されるのである。ピエール・ブルデューによって

提唱された文化資本は、大別すると二系統である。

 

 幼少期に身につけるべき「身体化された文化資本」と

学校で学ぶ「制度化された文化資本」である。

 

 道徳観念などは「身体化された文化資本」のはずなのだが、

個人主義、ミーズムで汚染された家庭は、

「うちの子さえよければ」という生き方で、

「近所の子まで教えよう」という発想は皆無である。

 

 ぎゃくに余計なお世話だとお叱りをうけるかもしれない。

 

 ようするに、道徳的思考法を家庭にまなぶ

ということがひじょうに少なくなっているのだ。

 

教育委員会は、その事情に気づいたのか、

アノミー的なモラルハザードの現況を嘆いたのか、

来年度から、小学校の「道徳」を教科に昇華させるのだ。

 

 教科として、児童に道徳観を、

強制的なしかたで、算数や国語とおんなじように

刷り込ませることになる、ということである。

 

 ほんらいは、前述したとおり、

道徳的感情は、身体化された文化資本に内在するか、

生得的にあるだろう感情のような気もするが、

それが、教科という、外的オプションとして

児童に与えるということになる。

 

 しかし、児童のなかには、すでに個人主義は

すっかり根を下ろしていることだろうし、

そこに、上滑りのような教科を注入しても、

おそらくは、本音と建前の二重人格的な考量が

棲みつくだけのような気もするのである。

 

 建前として、共同体感覚を理解し、

本音はじぶんさえよければそれでいいという

二重人格性である。この建前を「外的自己」、

本音を「内的自己」と分節すれば、

岸田秀の「唯幻論」とおんなじ構図になる。

 

「唯幻論」は明治政府の本音、建前の二重構造を

「病い」と論破した重要な言説だとおもうが、

それとおんなじ「病い」が児童にもたらされない

ことを願うものである。

 

 わたしは、学校がこれから取り組む「道徳の教科化」に

ついて批判するものではないが、それが弥縫策で

あるようなおもいはぬぐいされない。

 

 この、道徳意識の低下、モラルハザード、

良心の欠如、ひいてはアノミー化した世の中をどう改善すべきか。

 

 もう手遅れかもしれない。

 

 フーコーや山本七平がいうところの、

絶対的な唯一神の出現をまつのか、

あるいは、精霊を登場させるのか、

つまり、人知を超える「なにか」を

経由させなければならないということなのだ。

 

 しかし、そんなロマンチシズムは

どうも現実味を帯びてこない。

 

 究極的に、良心を取り戻し、

根本的な共同体感覚を見つめなおすには、

ポールシフトか地球寒冷化現象しかないのじゃないか、

とわたしはおもっている。

 

 ポールシフトは、地軸が南北反対になる現象で、

そうなると、地球の空気はゼロになる。

強い風が吹くらしい。

 

 と、人類は滅亡するのだが、というより、

生きとし生けるものの「死」を意味するのだが、

そのなかでも、生き残る「もの」があるという。

その生き残る「もの」が力を合わせ、

新しい地球を作り上げる、

そのときがチャンスなのだろう。

 おなじく、氷点下55度という冷気が

地球を覆い、ほとんどの人や生き物が滅亡しても、

かならず、生き残る「もの」がいる。

 そのときは、電子機器もあらゆる文明も

破壊されるだろうが、人びとのつながりだけは

「生きるための協力」として生まれてくるだろう。

 

 その喫緊のときこそが、

にんげんの本来をとりもどす「時」なのではないだろうか。

 

 わたしは、そんなことを考えながら、

「地域連絡協議会」に出席していたのだが、

そんなことを語りだしたら、

となりに座っている町会長さんは、

寝てしまうだろうし、どなたも耳を貸さないに

決まっている。

 が、じぶんの質問する番が回ってきたので

ひとつだけ簡単な質問をした。

 

「いま、日本の教育事情はどのくらいですか。

OECDのリテラシーの結果が出ているとおもいますが」

 

と、校長も副校長も、いま何位になっています、

と具体的な数字はお示しにならず

「えっと、すこしずつあがっているとおもいます」

と、あいまいなお答えがあっただけだった。

 

学校側は、そういう世界的な規模の結果は

気にしなくてもいいのである。

それに、この会は正式なものでなく、

質疑応答も、お茶を濁す程度でよろしい。

なぜなら、お茶飲み話だからである。