短歌の可能性

2018/03/27
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 短歌とはなにを語るのか。

現代短歌があゆんでいる道はほんとうに正しいのか。

また、そもそも短歌に正しいということがあるのか。

非人称などあらたな分節もうまれるが、

はたしてそれが王道なのだろうか。

また、そもそも王道などがあるのだろうか。

 

 

 ナイーブをつきつめるとプリミティブになる、

そう説いたのは、泉下の小野茂樹である。

 

 結社誌「地中海」を牽引すべき人材であったのに、

タクシー事故で夭逝された。雅子夫人とひとり娘を残して。

 

 もちろん、わたしが小野さんから

じかに伝授されたわけではなく、プリミティブの話は、

下南拓男先生からうかがったことである。

 

 しかし、プリミティブとはいかなるものか。

小野さんの残した慧眼なる一言をわれわれは

受け継がねばならないのではないだろうか。

このへんの事情がひどく気になるのだ。

韻文表現にかぎらず、文学に携わる者として。

そして、短歌を作っている者として。

 

 このあいだ、高橋淑子から電話があって、

さいきん、政治に関する短歌があるが、

あれ、どうおもう、なんて話になった。

 

 わたしは、短歌の総合誌を読みあさるという

ことをしないし、読解力に難点があるので、

なかなか本が読めずにいるのだが、

彼女は、きっとそのへんの勉学に余念がないのだろう。

 

 だから、すなおにわからないともうしあげる。

 

 しかし、そこでその問いに

一条のひかりを差し込んでくれるのが小野茂樹なのである。

つまり、ナイーブさを昇華させた

プリミティブというコードの代入だ。

 

 もし短歌の本筋にプリミティブさがあるのなら、

いまの滑舌が悪い安倍さんへの

オウトライト言説のような短歌なら

時代の鏡としておもしろみもあろうが、

それは、リリカルさを担保する

崇高な短歌にはなりえないとおもうのだ。

 

 それは政治と原始的な「なにか」とは真っ向から対立する

概念だからである。原始時代の感覚であれば、

法にコミットするという発想などありえないし、

政治や近代的ロゴスにコミットすることもない。

 

 ところで、プリミティブ、原始的というかぎりにおいて、

にんげんがにんげんらしく生活をするときから

かんがえればいいのであるが、そのにんげんの出発、

スピーシーズとしてのホモサピエンスの自立は

歴史学的に五十万年前とされる。

 

 歴史の生成した瞬間をかんがえることを「零度」と

言ったのは、ロラン・バルトであるが、

つまり、にんげんの「零度」は50万年前ということだ。

 

 定住社会を構成したのは、やく1万年前、

大規模定住はおよそ3千年前である。

 

 言語らしきものの発生は4万年前とされる。

そのころの言語は、叫びだったり、散文的ではなく、

詩的な言語だったりしたらしい。

 アニミズムやトーテニズムの影響でロゴスが

活用できない場である。

 

 言語的な零度をおもえば四万年前なのだろうが、

感情という概念からすれば、それよりはるか

数十万年前にさかのぼらねばならない。

 それは、はたして可能なのだろうか。

 

丸谷才一の『樹影譚』の末尾のくだり、

「ざはめく影の樹々のなかで時間がだしぬけに遡行して、

七十歳の小説家から二歳半の子供に戻り、

さらに速度を増して、前世へ、未生以前へ、

激しくさかのぼってゆくやうに感じた」と言うような、

そういった規模よりも、はるかかなたを照射して

遡らねばならないのだろう。

 

 その時代には、おそらく時間観念は、

おおよそ近代、現代とはかけ離れたもので、

そこにプリミティブの本拠地が

見つかるのではないだろうか。

 

 しかし、そこにわれわれの感情をさかのぼらせる

ということはどういうことか。

 

 すくなくとも言語生活のない営みを

言語活動で表現しようとすることが

無謀なのかもしれない。

 

 ショシャナ・フェルマン女史が、

ヨーロッパ言語の男性性のなかから

女性言語を抽出しようとした試みにも類比的で、

そもそも、男性言語たるヨーロッパ言語でしか

女性はものを思考することも語ることもゆるされないのに、

その男性言語を借用しながら、女性特有の言語を

作ろうとするパラドクスに

けっきょくフェルマンが

立ち往生したのとおんなじことを

いま、わたしはしなくてはならない

羽目になっているのかもしれない。

 

しかし、ただ、そこに架橋してくれるゆいいつの

ヒントは「価値」という概念である。

 

価値にコミットするということは、

それは、ロゴスではなく、むしろ感情である。

 

 そもそも価値とはなにか。

日々の日常生活から見つけるのではなく、

また、いまの資本主義から探し出すのでもなく、

もっと抽象的で超越的なところからうまれるもの、

それが価値である。

 

ドイツの哲学、社会学者である

ユルゲン・ハバーマースが言うところの

価値のコミットの要諦は正義とか真実とかは

感情のもんだいで

「認識」ではなく「関心」であるという。

あるいは、リチャード・ローティは「真理」ではなく

「動機付け」であると説く。

ローティは、それを「無知なる光」と言った。

 

 

 短歌の世界からはずいぶん

距離のある話のようにもおもえるが、

プリミティブさをかんがえるうえでは

ロジカルな言語の使用やその取扱説明書だけでは、

どうも十分条件ではないようだ。

 

進化的につくりあげられた感情や

心の動きからすれば、われわれの「零度」たる

五十万年前にさかのぼり、そのときに確立した

「なにか」を探さねばならない、ということなのだ。

 そして、それは言語ではない、ということも

含めておもわねばならない。

 

 しかし、もちろんそんな教科書も

攻略本も短歌の先生の指導書にもない話だ。

 

 ようするに、わたしたちの深奥に

アプリオリ的に眠っているかそけきものを

みずからの内面から引き出してくるより

方策はないのではないかとわたしはおもう。

 

 日本人なら、山寺の夕暮れの鐘の音を聴いて

なにか心に響くものがあるとする。

 

 その心に響くものが、おそらくプリミティブと

連関されているのではないか。

 

 と、そんな卑近な話しかいまのところできずにおり、

それにともなう作品があるのかといえば、それもない。

 

 しかし、丸谷の言うように「激しく」過去にさかのぼること、

それが作歌のモチベーションとなるのではないだろうか。

 そして、古きを求めて新たらきを知るというのか、

短歌の無知なる光とは未知なる太古の広大な世界に

輝きを放っているのかもしれない。