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なんどももうしあげていることだが、
マスクとリップクリームは
スピーシーズとしてのサピエンスの
終焉のサインではないか、と、おもうのだ。
つまり人類のおしまい。
むかしは存在しなかった花粉症のためか、
ウィルスにはまったく無効なのに、
街でも電車内でもマスクのひとを多くみかける。
乾燥すればリップクリームはかかせない。
これは、地球に順応できなくなった
われわれの、つまりは終焉の入り口ではないか。
自然という計り知れない存在にたいする
リテラシーが欠如してきた、そういってもいいだろう。
われわれは、どうもあらゆるリテラシーの
内面的なリソースを失いかけているのかもしれない。
たとえば、卑近な話で
もうしわけないけれども、
笑いの構造ひとつにしてもそうである。
感情の劣化にともない、
文化レベルが貧困化しているのか、
それともわたしどものリテラシーの光度が
落ち込んでいるのか、とにかく芸にたいして、
われわれは鈍感になっている。
純粋な芸だけを見て、それに共鳴も
笑いもおきなくなっているのが現状だ。
バラエティー番組のことごとくは、
演じる芸人とその周囲の芸人の笑い顔とを
交互に放映する。
「だめよ、だめだめ」と首を振る人形めいた演技を、
先輩の岡村などが大笑いしている映像が
いっしゅん流れるのだ。
つまり、わたしたちは、周りで見ている芸人の
笑う姿を見て笑っているという図式である。
伝わらない物まねなんとか、
などという番組は、
演技者が数秒で舞台から落下するという
面白みのほかに、博士に扮する芸人たちの
大笑をわれわれに刷り込ませ、われわれは、
その笑いに乗じて笑っている。
もっといえば、観衆たる芸人たちの
「査定」が加味されているわけで、
それも、その当事者の芸人より
ランクの上の芸人(とおもわれている)
によっての査定であるから、
われわれは、そこで、笑いを許可されているといってもよい。
「岡村や関根さんが笑っているから笑っていいんだよ」
ということだ。
ようするに、笑いの構図はそのように構造的に担保されて、
提供されているのである。
フジテレビが凋落したという本が売れているそうだが、
凋落したのは、われわれのリテラシーのほうかも
しれないのだ。
芸人といえば、最後の芸人は、
高田純次、小松政夫、伊藤四朗あたりではないかと
わたしはおもう。
共通していることは、垢抜けなさである。
昭和のレトロ感といってもいい。
しかし、他者の視線や笑いを借りずとも、
この芸人たちは、独り立ちしているのではないか。
小松政夫の師匠は、植木等である。
シャボン玉ホリデーで、ザ・ピーナッツの
真ん中に割り込んで「あ、こりゃまった失礼しました」
というギャグは小松のおかげだと植木はいう。
付き人だった小松が植木の出番を伝えて、
それで出て行ったら、まったくお門違いだった。
「あれは、小松が間違えたんだよ」と植木は言ったそうだが、
小松政夫にしてみれば、付き人が出演時間を
間違えるはずはなく、ああ植木がいうことで
小松を売り出したのだと、小松じしん回顧する。
植木が各界の有名人とゴルフに行ったとき、
小松は運転手として同行し、ラウンドがおわるまで
待機させられる。「昼、好きなもの食べていいから、
おれのところにつけておけ」と植木は言いコースに向かう。
小松は、すぐさまシャツを脱ぎ、真夏の酷暑のなか、
車を徹底的に洗車する。かれは、もともと
自動車のセールスマンだったので、
車には詳しい。
すみからすみまで磨き師匠の帰りを待つ。
「えー、みなさん、こちらが小松政夫です。
かならず有名になる男です。よろしくお願いいたします」
と、いっしょに周った中曽根元首相や野球選手の前で、
小松を紹介したという。
さて、車に乗り込んで植木は訊く。
「車替えたのか」
「いえ、洗っておきました」と小松。
「そーか、ところで、おまえ昼は食べたか」
「いただきました」
「うそつくな。こちらに伝票があがってないぞ。
そーだ、おれもまだ昼はまだだから、
そのへんに停めて飯を食うぞ」
「あそこでいいですか」
「うん」
ふたりは、蕎麦屋に車を停める。
「好きなもの頼め」
「はい、では、わたしはかけそばをいただきます」
「ん。では、わたしは、カツ丼と天丼だ」
で、出された二つのどんぶりに
箸をつけたかとおもきや、
植木は「そうだ、おれ、油ものは食べてはいけないと
医者から言われていたんだ、お前、わるいがこれ食べてくれ」
師匠と弟子の関係性というものは、こういうしかたで、
構築され、そして芸のひとつになってゆくのである。
芸というものは、見よう見まねでだけではなく、
ひととの関係性の中でじわじわと
生まれてゆくものなのだろう。
落語や能や歌舞伎などのテレビ番組など、
ほとんど放映されなくなってきている現実は、
そういう伝統芸として独り立ちできるものに、
わたしたちが、独り立ちして鑑賞する能力を
失ったということにほからない。
テクノロジーの発達が、このような
劣化に拍車をかけているのは自明のことである。
文明は、人びとを豊かに便利に快適にさせる
装置であったはずなのだが、
高度文明は、そのにんげんを
使いものにさせなくさせているだけで、
それは、けっきょく、
じぶんでじぶんのクビを絞めている
ということにほかならない。
端的にいえば、
携帯電話をいじりまわすことが、
じぶんを滅亡の道に追いやっている
ということである。
このあいだ亡くなった、
スティーヴン・ホーキング博士は、
これだけすすんだ惑星では、
おおよそ百年が限界で滅びるだろう、
と、数十年前に語っていた。
それから、六十年くらいたつので、
ホーキング博士の言説がただしければ、
地球はあと三十年くらいで滅びることになる。
遣唐使の廃止を決した菅原道真が
唐の滅亡を見ずして亡くなったように、
滅びのときをホーキングは見ることができなかったが、
はたしてわれわれはそれを
目の当たりにする当事者となるのだろうか。
じぶんの死も想像できないが、
地球の死もわたしには想像ができない。
いままでいじょうにリテラシーが
崩壊して、痛みもよくわからなくなり、
地球滅亡のときには、
それはそれでよいかもしれないけれど、
しかし、便利さの追求のあまり、にっちもさっちも
行かなくなり、途方にくれながら、
わたしたちは、
宇宙船地球号、その最期に付き合うのだろうか。
もし、終焉がすぐそこにあるなら、
そのときの水惑星、地球には
どんな空気が立ち込めているのか、
それもわからないのだが、せめて、
リップとマスクの用意だけはしておこうとおもう。