マクシミン

2018/04/19
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 車に乗ると人格がかわるとは
よく言われることである。

 うちの街の商店街理事長、酒井さん(仮名)は、
むかし、ベンツの大きいのに乗っていた。

 うしろのプレートにS500とあったから5リッターなのだろう。
大きな排気量の車で、都内では無駄な大きさである。

 が、わたしの友人の車屋さんは、
酒井さんの車を見るや、あれ3リッターだな。
音でわかるよ、と言っていた。

 どうも見栄がそうさせたらしい。
3リッターなのに、本人か、あるいはだれかが、
5リッターの表示に取り替えた、ということである。


「あれ3リッターだろ」と車屋は坂井さんに訊いたそうだ。
と、「わかんないですね」とかれは答えたという。

 じぶんの車なんだから、わからないなんて
あるだろうか。

 政治家の「記憶にありません」と、ほぼおんなじである。


 坂井さんは、肩をゆさぶって街を歩く。
そうするとガタイがでかくみえるそうだ。
チンピラやくざの歩き方と類比的である。

 そして、道中、かかさずタバコをのむ。

「わたしが、あんたは街の顔だから、
歩行禁煙のこの街で歩きたばこはよしなよ」
と、なんどもご注進申し上げてもいっこうになおらない。

 えーい、俺さまのおとおりだいっていう勢いで
大手を振っていつもプカ・プカ・プカ。


 身体に悪いからって言っても
いつもプカ・プカ・プカ。


 さながら家来のいない大名行列である。


 前に出たがりだから、
街のイベントとなると、ハンドマイクをもって
「え~」ってはじまる。

 何百人も集まるイベントだと、
それは絶頂に達し「え~」の声がひときわ大きくなる。

 とにかく「え~」からはじまる。

 名前を「大造」といい、携帯のアドレスに、
「super star-daizo」とあったのには度肝を抜かれた。

 「Super star」でいいですよ、商店街理事長なんだから、はい。


 わたしが、まだ高校の教師をしていたころ、
卒業してゆく生徒の何人かは、
「せんせい、おれビッグになるからよ」って巣立って行った。

そんなやつらでビッグになった奴を
わたしはひとりも知らない。

 生活の基本原則は「マクシミン」である。
リスクマネージメントが個人の中で起きているからである。

 ほんとうにビッグになるやつというのは、
「マクシミン」ではなく「マクシマックス」であり、
火中の栗をひろうような向こう見ずなカケをし、
社会的に整っているというラッキーと、
手持ちのパワーとで、SF的設計の
保障のないところからを乗り越えた稀有な生き残りなのだ。

そんなやつめったにいない。


アドレスだけは「Super star」、いいじゃない。

と、どうしたことか、スーパースターはさいきん
ベンツを放棄して、軽自動車に鞍替えしたのである。

 おう、マクシミンじゃないか。
分相応、贅沢は敵であったのだ。


「坂井さん、お父さんのこときらいだよね」

 いぜん、娘がぽそりと言ったことである。

 わたしは、娘の唐突な言いかけに
「そうかな」とあいまいなあいさつをしたのだが、
そーだったんだ、かれは、おれが嫌いなんだ、
ということをはじめて認識したのである。

 子どもというものは、よく見ているものだ。

 しかし、おんなじ地域に住んでいて、
べつに嫌われてもいいけれども、
やはり、同調してもらわないと、
うまくまわらないこともある、というものである。

 わたしは、理事長の仲間でなくてもいいけれども、
せめて疑似仲間にカテゴリーしてくれないと、
街は活性化されない。

 大規模定住社会の中においては、
仲間以外の疑似仲間を認めないといけないと、
そう説いたのは、古くはアリストテレスである。

 弱い敵との共存と言ったのは、
オルテガ・イ・ガセーである。オルテガは20世紀の哲学者。

 リベラル・コミュニタリアン論争という
論壇における言語論争があったが、
けっきょくは、国民国家に対しては普遍主義を貫こう、
ということであった。

 普遍主義とは、みんな仲良くという考量である。

 つまり、こんなみみっちい地域にあっては
共同体感覚や仲間感覚をもちあわせなくは
やってゆけない、というところに着地するのである。


とくに、「長」のつく役職のひとは、
そこのところをしっかり認識しなくてはならないだろう。


 さっき、店の前を掃除していたら、
一台の緑と黄いろのツートンの軽自動車が走り抜けていった。

 覗き込んでみたら、酒井さんであった。

 かれは、ベンツに乗っているときとおんなじように、
軽自動車の運転席でふんぞり返って運転していた。

 車に乗るから人格が変わるのではなく、
ようするに、けっきょく人は変わらない、ということに
わたしは思いをはせたのである。