油淋鶏

2018/04/24
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 昨夜は駅前の岸さん(仮名)の店で食事をする。

担担麺の有名な店だが、ほとんどの学生さんは、

麺ではなく、定食をたのんでいる。

 

 定食が廉価すぎるくらい廉価だからである。

価格破壊といってもいい。油淋鶏が630円。

ご飯は大盛り、スープは飲み放題である。

学生の街にあって、駅前でこんな看板だされたら、

ほかの店がたまったものではない。

 たしか、明日は、630円で食べ放題の日のはずだ。

 

 ほとんどもうけはないはずとおもうが、

かれの思わくは、プアな学生を一気に集め、

他店に目を向けなくさせる作戦だとおもう。

 

 つまり「共倒れ」志向である。

自店ももうけないけれども、他店には行かせない、

ただそれだけにわたしには見える。

 

 六時まえ、店内は学生さんばかり四、五人ほど。

テーブルには二人、カウンターに三人ほど。

わたしはテーブル席に座り、担担麺を注文する。

 

 向かいの学生さんは、鶏のあんかけ(のような)定食を

食べていた。その隣の学生さんは、そぼろのどんぶり。

なんという名前の料理かはわからない。

 向かいの学生さんは、左手にしっかり携帯を

握り締め、片手で箸を動かしている。

 ちょくちょく携帯を見、またひとくち。

そして携帯をいじる。またひとくち。

ラインなのだろうか、インスタか。

 

 そのお隣さんは、どんぶりには箸をつけていない。

ずっとゲームらしきものをしている。

 両手をせわしなく動かし、身体をややくねりながら、

クリアを目指しているのだろうか。

 どんぶりは、仏壇のお供えのように放置である。

 

 早く、食えよ。

 

 まったく関係ないが、そうおもった。

 

 わたしには、子どものころ、左手に茶碗をもって、

箸をちゃんとつかって食事をすることを手厳しく

教わった記憶がある。文化資本である。

 

 いまどきの家庭は、茶碗は手にとらなくてよい、

そのかわりに携帯を持て、

テーブルに置いてあるおかずやらご飯を

左手をつかわずに箸でつまむように食べなさい、と、

そう訓練されてきたのだろうか。

 あるいは、食事ができても、それはお預けで、

まずは、ゲームをクリアせよ、

それが美徳だと教わってきたのだろうか。

 

 それを時代と呼ぶなら、そうかもしれないが、

それは劣化した時代としか言いようがない。

 料理をつくったひとにたいして

無礼千万であることに無自覚であるからである。

 

 

 いったい君らは、家庭でどんなことを

教わってきたというのか。

 

 

 塾に行って、その中でもいい成績でもって、

一流大学に入学したのだろう。

 一流大学に進んだものの、食事のしかたひとつも、

社会的ルールもしらずにいるのだから、

むつかしい勉強ばかりで、

ほんとうの「教え」を学んで来なかったのかもしれない。

 

 

 インターネットが、民主制にたいして

ネガティブなはたらきしかしないと語ったのは、

キャス・R・サンスティーンである。

 見たいものしかみない、やりたいものしかやらない。

 それは世の中の「真実」ではない。

世の中の「真実」は、じぶんの嗜好の外側にある。

好きなもの、やりたいもの、しか見ない、やらない、

それでは、けっきょく世の中をしっかり見ることはできないわけで、

それは、恣意的な子どものまんまの大人が生産されてしまう。

 

 民主制は、客観的かつ抽象的思考の

プラットホームをもったひとの民意によって

担保されているのだから、こんなふうに携帯を

いじっているひとたちばかりだったら、

そのシステムが崩壊してもおかしくない。

 

 現代のインターネット化は

個人的な思考や集団的思考を

ただサポートするようにしか機能していない。

 今後の課題は、インターネットに依存するコミュニケーションの

アーティテクチャーをどうすべきかというところに

着地するだろうが、

その答えは荒涼とした未来のなかにあるのだろうか。

 

 実態をみればわかるものも、

インターネットは、体臭も温度もない

すこぶる不自由なコミュニケーションにしかなっていないから、

ほんとうの「現実」がわからないままになっている。

 

 オーグメンティッド・リアリティとは、

現実の加工であるから、生身の現実とはわけがちがう。

そんな時代である。

 

 生身の現実には、体温も体臭も、

そして醜いものも、悪意も、嫉妬も、道徳も、良心も、

アノミー状態も、戦争だってある。

 

 

いま、わたしの前で食事をしている若人たちは、

そういう加工された携帯という現実に、

片や左手に、片や両手に抱え、料理そっちのけで

没頭しているのだ。

 

 そこには、現実のなまぐささはない。

 

 

 

「おたくの油淋鶏、しかし安いよね」

と、わたしが岸さんに言うと、

「なんちゃって油淋鶏だからな」と

かれは苦笑いしていたのをおもい出す。

 

 提供している料理が「なんちゃって」だったら、

ま、ちゃんとしなくてもいい仲間が集まる

空間なのかとおもえば、わたしのもうしあげたことは

空文でおわってしまうのかもしれない。

 

 あきらめよう。

 

わたしが、担担麺を完食して店を出るとき、

対面の鶏のあんかけ君も、

そのとなりのそぼろのどんぶり君も、

まだ食事なかばで、携帯と戯れていた。

 

 早く食えよ。