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エスニック・ジョークは、
国民性をあらわす端的な揶揄であるが、
箴言としても有効である。
あるいは、国家間の差異とおもえばわらってすませる。
エスニック・ジョークは
行動のステレオタイプがそれを担保しているが、
よく言われているジョークが
船から飛び降りさせるときのひとことである。
アメリカ人なら、飛び込めばヒーローになるよ、
イタリア人では、美女も泳いでいるさ、
フランス人には、けっして海に飛び込まないでください、
ドイツ人は、義務です、
日本人には、みんな飛び込んでいるよ、
韓国人では、日本人も飛び込んでますよ、
と、枚挙にいとまなくジョークがとびかう。
また、たとえば、
ハワイの女性がアヒルを抱えてやってきた。
バーテンダーが
「ちっょと、こんなところに豚連れてきちゃこまるよ」と言った。
と、女は「なに言ってるの、これはアヒルよ」と答える。
と、その答えを聞いて、バーテンダーが言下に答えた。
「おれは、アヒルに話しているんだ」
わたしが、もうしあげたいことは、
各国とも、それぞれの国民性があって、
典型的な行動様式や価値観があるというのに、
しかし、その国々がひとつになろうという
いわゆるグローバリズム、グローバルガバナンスには
限界があるのではないか、ということである。
ベトナム人が、日本人と中国人と韓国人とを
見分けるのに、日本人は食事の前にかならず
おまじないのようなことを言うという。
食事を終えてもおまじないはある。
買い物をしたあと、お客であるのに「ありがとう」と
言うのは日本人だけらしい。
これも、お国柄である。わたしは、そういう
「祈り」に付随した、ベトナム人のいう「おまじない」を
誇りにおもう。ここに、宗教とはちがう神にたいする日本人の
アイデンティティが潜んでいるのではないかと
おもうのだ。ま、それは置いておいて。
韓国の食器でもっとも価値あるものは、
銀色のぴかぴかの材質である。
給食のおかずの皿に似ている。
そういえば、箸までが銀の棒状のものである。
(あれ食べにくいね)
ある、土建会社のひとが言っていたが、
なにに苦労するかといえば、アジア系の職人には
靴を履かすこと、欧州系の人には靴を脱がすことだ、
と。
お国によってさまざま、ということである。
さて、グローバル化だが、
国家という縦割りの分節ではなく、世界が
共通感覚でもって統一的な方向性になる運動の
過程をそう呼ぶのだが、もともと、グローバリズムの
零度(事のはじまり)は、税金、法人税であった。
法人税は、ヨーロッパでは、
おとなりの国の方が安ければ、こぞって隣の国に移転する。
と、負けてなるかと自国が法人税をほんのすこし下げれば、
また、隣国はと、そういう負のスパイラルを
経験してゆくうち、40年経ってみると、
法人税はどこの国も半分以下になってしまった。
だから、ヨーロッパの国が
いっしょになって法人税を統一しなければ、
この悪循環は止めらないわけで、
それは、とりもなおさず自国の主権の譲渡か、
あるいは放棄するということにほかならない。
国内経済の飽和、成熟して利潤率がわるくなる、
あ、じゃ外国人を使えば安くなるわ、とか、
海外に工場を移転しようかなんて、
そんなこんなでグローバル化がおきるのだが、
それによって
国内の中間層が分解して、先進国をささえる民主制が
危機に陥る。じゃ、それを回避しようとすれば、
方法はふたつしかない。
ひとつは、グローバル化を食い止めることである。
他国とさまざまに付き合わないわけだ。
そうすれば、国内の中間層に利益がまわる、
と、かんがえるのは早計なので、ひとつめは却下。
だって、利潤率が下がるだけではないか。
しかし、いま、アメリカはこの方策をとろうしているけれど。
もうひとつは、破壊である。つまり、戦争を起こすことによって
いっしゅんでも利益率をあげる、というポリティカルパッケージは
あまり歓迎されるものではない。
しかし、国家通商会議の議長に、
カリフォルニア大学アーバイン校教授の
ピーター・ナヴァロが就任したが、かれは米中戦争あるかも、
なんていう論文をだしている。
じっさい、われわれの民間レベルまで
視点をさげてみると、駅を降りれば、マックにケンタに
スタバなど、チェーン店がぞろりと店構えしている。
どこに降りても、マックにケンタにスタバに、チェーン店、
グローバリズムは、どの街もおんなじロケーションを造形する。
われわれも、場末のへんてこな店で、へんてこな
食べ物を、法外な金額で食わされるなら、
「とりあえずここで」とマックに入ったり、ガストに入ったりする。
われわれが、食のグローバリズムを
担保させている根っこに、
この「とりあえず」という消極的選択意識がある。
街の食堂のまずい食事のリスクより、
うまくもないけれども、ゲぇーってならないガスト、
あるいはマックにするか、
みたいなリスクマネージメント、いわゆる「マクシミン」が
作動するわけだ。
せっかく、あたらしい街に降り立ったのだから、
そこの街にしかない名店がないものかという、
ささやかな「マクシマクス」的な、
ミクロな冒険をしてくれれば、
マックもケンタもサーティーワンもスタバも
ガストもサイゼリアも余儀なく撤退、ということに
なるとおもう。
つまり、グローバリズムは、
文化の多様性、保守主義のアンチテーゼであって、
簡易化、単純化、画一化を
邁進させるだけである。
もうすこし敷衍しておもえば、
グローバリズムとは、世界中の価値観が
あるとき共有されねばならないはずだが、
それがむつかしいわけである。
ようするに、普遍主義を掲げていなければ、
どこかで亀裂が生じるというものである。
が、この世の中、そんなに「仲間意識」が
世界レベルのプラットホームで構築できるとはおもえない。
じっさい、リベラル・コミュニタリアン論争において、
ユニバーサリズム、普遍主義の範囲は、世界ではなく、
どんなであっても自国につきる、つまりは、
普遍主義とは、コミュニタリアンの一亜流にすぎず、
国民国家さえよければ、それでいいではないか、
という結論に達しているからだ。
リベラリズムの主導者、ロールズの『正義論』、
世界は正義で統一できるというリベラリズム論は、
マイケル・サンデル,チャールズ・テイラー,
アラスデア・マッキンタイア,マイケル・ウォルツァー
といった一連の論者たちが、
こぞって「みんなってだれだよ」って批判し、
けっきょく、「みんな」って範囲は、
なんだ自国のにんげんだけじゃん、
ユニバーサリズムとしては成り立たないよね、
ということに落ち着くことになる。
1993年のことである。
だから、グローバル化のプラットホームに
必要不可欠な普遍主義は、あえなく否定され、
それでも、世界共通の価値観、という旗指物を掲げる
ところに、どうも、矛盾がおこるのは必然なのである。
グローバル化は、歓迎するが、
その速度は早くてはいけない、という説があるが、
それは、その矛盾点を徐々に希釈しようとする
弥縫策なのかもしれない。
しかし、わたしの店に、よく中国の方が来店されるが、
かれら、彼女らは、食事のあと、ほとんどみな「ごちそうさま」と
言って出ていかれる。
これは、自国、中国では考えられないことだろう。
郷に入っては郷に従え、とはいうが、
そのような、ささやかなその国への理解が
グローバル化をささえる原動力になるのかもしれない。