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11:30~14:00/18:00~22:00(平日はランチのみ)
「すべては券売機のせいですよ」
カワダ君はそう言って汗をぬぐった。
「なんでよ。昨日は、堀部さんが来なかったから、
おれひとりで、おんなじことやったんだぞ」
「昨日より、今日のほうが混んでないですか」
じつは、先日から券売機の調子がわるくて
千円札がはいらずに、ご来店のお客さんには、
こちらで千円札を五百円硬貨に交換してもらっていたのだ。
店の席数は十一席。
昼時になると学生さんや作業員さんで、たまに満席になる。
今日は、どういうわけか満席で、
かつ、何人かのお客さんが外で待っているという状況だった。
かれは、てんやわんやである。
両替をしなくてはならない。はたまた皿の補充。
あるいは、ほうれん草の用意、あるいは、チャーシューを人数分焼く、
などなど「しなくてはならない」ことのオンパレードである。
が、しかし、飲食というものは、
「そんなもの」であり、「・・・しなくてはならない」こと
つまり、当為の文体ばかりである。
その仕事を忙しくするのか、なんなくすいすいとこなすのか、
それは、そのひとのリテラシー、力量の問題であるかもしれない。
もともと、能力のあるひとは「忙しい」とは言わない、
というのが、わたしの持論である。
「忙しい」というやつは、能力が低いか、
アンダーアチ―バで生きているか、
そのどちらかであるとおもっている。
ちなみに「常識」という語をなんども振りかざすやつを
わたしは「バカ」とおもっている。
常識など、あしたの非常識だからである。
もっと言えば、われわれは、あるイデオロギーを
常識としてとらえている偏見の時代を生きていると
いってもよい。
「なんで券売機のせいにしているのよ。
それから、お札は顔をそろえてしまえよ」
「後からやります。いま、いそがしくてできません」
入れるときにそろえるだけ、かんたんなことじゃん、
って言えるのだが、
これいじょう言うと「パワハラ」とか言われるんだな、
いまの時代は。こまったもんだ。
じぶんは悪くない、悪いのはじぶん以外のどこかにある、
つまり、敵を見つけて生きようとする人種はいる。
そういう輩の多くは「認知的斉合性」の渦のなかに
生きている。認知的斉合性理論とは、かんたんにいえば
みずからにあるだろう原因に帰属できずに、
その原因を他者にもとめる図式である。
つまり、つじつまの合うように、じっさいの事実も
じぶんのいいように無意識的に変形するということである。
あの娘には、なんの嫌悪感ももっていないけれど、
わたしが、それに気づいてしまい、罪悪感と正義感でもって
そのいじめに参加することをやめると宣言したら、
あの娘をいじめているみんなから、わたしがハブにされてしまう、
だから、あの娘の「いじめごっこ」にひきつづき加担しよう、
なんておもうのも、この認知的斉合性が働いている。
こういう思考を妄想の共同性とよぶ。
つまり、にんげんというものは
妄想の惰性体だということにほかならない。
が、ここではいじめの話はこれいじょう述べないでおく。
わたしの娘に娘ができ、つまりわたしの孫であるが、
婿さんのご実家は、その娘の娘、孫を溺愛してくれて、
それは、こちらの家では、すこぶるありがたいことであるが、
どうも、余計にさまざまに食べ物を与えるらしい。
やもすると、まだ一歳とすこしだけれど、
その机の前に、ケーキのホールが置かれたりするという。
(確認したわけではないけれども)
孫をかわいがるのは、おじいちゃん、おばあちゃんの本能的な
情愛だからほほえましいことだが、
過食や、いらない甘味系の投与は、
孫を肥満や不健康にさせるきらいがあるだろう。
おそらく、わたしの娘は、じぶんの娘をそんなふうに
させようとは毛頭おもっていないはずだが、
気をつかって、義理の父母にはそれを申し出ることができずに、
ストレスをためることになる。
この祖父母の構図も、認知的斉合化で説明できるわけだが、
祖父母は、わが孫が、でぶで、
ふくらはぎがボーリングのピンみたいになり、
ハイソックスのワンポイントのイーストボーイが横に伸びてしまい、
おまけにめがねでもかけてしまって、
さながら「安藤なつ」みたいになっちゃって、
「やーい、やーい、なつちゃん」なんて悪口雑言あびせられる、
という未来はとうてい想像していないだろうし、
娘が気にしていることも、斉合性の悪夢のなかに押し込められ、
孫がほおばっている姿に幸福論を見出すことになる。
これについて、あちらの家を
わたしはけっして責めるつもりはない。
そうではなく、ひとはそういうものだ、
ということをもうしあげているのである。
ただ、孫がふんだんにものを食べて
幸せそうにするのは、孫の幸福論ではなく、
その幸せそうな(ほんとうはそれが幸せかわからないが)
孫の姿によろこぶ、みずからの姿に喜んでいる、
ということは、すでに学問的に立証されていることである。
認知的斉合性理論は、認知的不協和理論とかバランス理論とか、
さまざまに敷衍されるが、おおむねの構造はこのように説明される。
小泉さんの首相時代には、原発推進派だったのだが、
首相をやめるや、原発反対派にまわったのも、
首相のときには、専門家の意見を信じていたと、小泉さんは
語っていたが、たしかに、原発の危険性の議論はあったが、
かれは、それには耳を貸さず、ステークホルダーの意見ばかりを
鵜呑みにして、つまり、認知的斉合化の悪魔にとりつかれていた、
ということで説明がつく。
見たいものしかみない、聞きたいものしか聞かない、
という振る舞いである。
わたしたちは、見たいものでなくても、
そこに発見があったり、聞きたくなくても、
集団との共通理解のためにそれを知ったり、という生活ぶりが、
民主主義の根幹にあると説いたのは、
キャス・サンスティーンである。
ようするに、恣意的なじぶんを立ち上げて、
まわりを見なくなってしまうことへの危惧を説いたのだ。
知らないうちに貧乏になった。貧乏になったのは
おれのせいじゃない。きっと世の中のなにかが悪かったせいだ。
と、貧乏という理由に帰属できずに、
世の中のなにかのせいにする、というタイプは、
はるかに強いある権力に頼ろうとするようになり、
これが、全体主義を構築してゆくのだが、
こういうナチス現象のような仕組みを説いたのは、
エーリヒ・フロムである。
これを「権威主義的パーソナリティ」と言うが、
ようするに認知的斉合化のひとつの言説である。
カワダ君はずっと発汗している。
わたしは、わりにへいきだ。
「おれ、そんなに汗かいてないぞ」
「おれは、働いてますから」
「じゃ、なんだよ、おれは働いてないみたいじゃん」
「いや、そんなこと言ってないですけど、
そういえば、今日、グリストするって言ってましたけれど」
「ん。あぁ、あとでする。あれ、知ってるだろ、
油とるだけだが、汚れ仕事だ。お前、やれよ」
と、カワダ君は苦笑いして、
「いえ、おれは見守っています。そういうのニガテなんです」
この発言は、認知的斉合化で説明がつくわけではなく、
たんなる仕事放棄の「へたれ」なのである。