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セーレン・キェルケゴールは
1813年、デンマークにうまれた。
いわゆる実存主義の創始者として有名である。
ヘーゲルやその一派を批判して論壇に
立ち上がったのだが、むつかしいことは専門家にまかせよう。
が、かんたんに言えば、あんまり
抽象理論でものを語るな、ということらしい。
「死にいたる病とは絶望だ」とし、
にんげんの不可避である「死」に神を付着させた
具体的な論を展開する。
にんげんの生には、
それ以前の歴史や世界に還元できない
固有の本質があるという考量を示したのは
当時としては画期的であったが、
しかし、これは、生者と死者と自然との
三すくみで生きるわれわれには、
受けいれがたいものがあったかもしれない。
ようするに、現実に直面したときの決定は、
「主体性」であると説いたのである。
けれども、その「主体性」は絶対的真理と
同義ではないとも語っている。
と、むつかしいことはどうでもよく、
わたしがここでもうしあげたいことは「水平化」である。
キェルケゴールが提示した「水平化」とは、
いまの世の中は、
人びとが、革命時には、活気にあふれ、やる気まんまんであったのに、
いまでは、(といっても19世紀であるが) そのやる気すら見えない。
みんな、へたれだ、と、そう分節した。
『死にいたる病・現代の批判』である。
公衆は、傍観者的となり、すべての価値観を
水平化してみてしまうという。
とくに、新聞について強く批判した。
その因果性の原因を
「非人間性をもたらす原動力となっている、
すなわち、新聞と匿名性」 (『死にいたる病』 P103) にあるとした。
キェルケゴールの時代には、
もちろんインターネットは存在しなかったから、
そのツールに新聞をもちだしたのだが、
現代は、新聞にかわりインターネットである。
これによって、大衆は、水平化どころか、
水平的個別化に変貌してしまった。
見たいものしか見ない、聞きたいものしか聞かない、
知りたいものしか知らない。
そして、積極的に動こうとしない。
もともとも動物学的にヒトは非活動的だといわれている。
が、その非活動的性向にインターネットが補充されれば、
ネットカフェに一日、座り続けて事足りる。
そして、そこで見たいものを見、聞きたいもの聞く。
これを「フィルタリング」という。
これによって、じぶんだけのニュースソースを
じぶんの画面でじぶんオンリーの記事をつくりあげる。
「デーリーミー」と呼ばれている現象である。
このへんの事情は、キャス・サンスティーンに詳しいのだが、
こういう「現代のへたれ」は、けっきょく
民主主義を崩してゆくことになるとかれは説く。
民主主義は、知らないものにであうことを
その主義の根幹であるとし、公衆の共通理解によって
担保されるというのがサンスティーンの論の骨子である。
なんでもかんでもググッて、はい、おしまい。
これは、微視的ながら国のシステムを破壊する行為と
なっているのである。
しかし、いまの民主主義を支えている
近代の高度資本主義のシステムは
壊れにくい。
というより、根が深いといったほうがいいだろう。
このシステムを変換するような
パラダイムシフトは、おそらくよほどの
暴力か、破壊がなければ起きないだろう。
そのシステムのなかにいる人びとは、
そのシステムにずっぽりと沈み、
そこにおける「ポジション」取りに専念するようになる。
たとえば、学校を選ぶにしても、
そこの教育理念などはおかまいなしに、
まず、成績がこれだから、この学校、
すこしでも偏差値の高い学校をえらぶ。
なぜなら、進学のために有利な学校だし、
就職に有利な学校えらびをするからである。
就職しても、それがじぶんの嗜好にあうのかより、
まずは給料、そして、そこのポストを争う。
いわゆるポジション取りは、エンエンつづくのである。
もし、ポジションが悪ければ、
人生の敗者となり、敗者は死ぬまで敗者でおわる。
この図式が担保されているのは、
この高度資本主義が強固だからである。
さきほどももうしあげたが、強固というより
根が深いからである。
根が深いなら、たとえ個人がインターネットに
没頭しても、焼け石に水くらいの影響しかないかもしれない。
が、個人が独創的にものごとを思考する、とか、
創造的生活をする、とか、なにかを作り上げるとか、
そういうブリコルール的な人生とは
よほどかけ離れているということは事実である。
これは、キェルケゴールの唱える社会とは
およそ離反しているのである。
いまの、この社会システムのミニチュアは
ディズニーランドをおもえば容易である。
あるアトラクションに90分も待たねばならない。
しかし、わたしたちは待つ。そこには、
「楽しい」はずのものが待っているはずだからである。
その「楽しい」はずのものは、わたしたちが、
創造するものではない。すべて、あちら側から
与えられたものである。100パーセントの付与である。
わたしたちは、その付与されたものに、
ただ乗ればいい。そのために待つのである。
そのとき、できれば、その列の前のほうに
並びたいと願うのがヒトの常である。
これがポジション取りである。
なるべく早く並んで、はやく「楽しい」はずのものに
乗りたい。すべてレールの上に乗せられ、
わたしたちは待つのである。
さ、順番が来た。
と、乗ってみるや、ほんの数分でその「楽しい」はずの
ものはおわってしまう。
ひとは、そんなふうに、このさき「楽しい」はずの
ものがあるはずだという「前未来形」で生きている。
その「前未来形」を担保させているのも、
堅固なシステムのおかげなのである。
だから、どんなに自民党がアナーキー的でも、
アノミー状態でも、国民がほとんどの政策に否定的でも、
まだ、生き残っている事情は、このシステムだけは
壊すはずのない政党だからである。
なにかしら、わたしは、こういう社会に
悲劇性や、悲喜劇性をみてしまう。
管見すれば、ディズニーランドは、その悲喜劇の実地の縮図、
水平化の現場ということになるわけだ。
わたしたちは、与えれたシステムやツールに
しがみつき、けっきょく、独創的な思考を放棄して、
そのなかに生きつづけるのだろう。
この現況をキェルケゴールが見たら、
おそらく、頭を抱えて悩むことだろう。
そして、なんという術語でもって、この事況を語るのだろう。
ちなみに、かれは、珈琲が好きで、カップを50個も所持し、
秘書にそのカップを選ばせ、なぜ、それを選んだか、
秘書に哲学的理由を述べさせたという。
ようするに、めんどくさい男だったのだ。
そのキェルゴールは42歳という若さでこの世を去った。