ナッジ理論

2018/05/17
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「それ、やめたほうがいいよ」
とか「そんなことしないほうがいい」と
言われるのがどうも好きになれない。 



吉田拓郎と井上揚水がラジオで、
音痴はなんで音痴であるかの論議をしていたとき、
坂崎幸之助が
「一流ミュージッシャンで音痴談義やめてください」と
冗談めいて口をはさんだのでさえ、
あまり、いい気持ちで聴くことができなかった。


ひとは、「何々するな」と言われると、
なぜかわからないが、あまりいい気持ちがしない。
ひょっとすると、
人格のどこかに抵触しているのかもしれない。
それは、人格の全面否定ではないにしても、
じぶんのなにかを否定されていると感じるからなのだろう。 



ネガティブコメントとはそういうものなのだろうが、
子どものしつけにしても、「これをするな」「しちゃだめよ」と
教え込むことより、「これをしなさい」と、
してはならないことを語るより、
していいことを教えるほうが教育的だと
言っていたひとがいた。御意である。 

 



わたしの元職場では
「そんなことすると言われちゃうよ」
というフレーズがステレオタイプで横行していた。
じぶんの思想や価値観を棚上げにして、
他者を持ち出しひとに注意勧告をする、もっとも卑劣な
やり方だとおもうが、
そもそも、その「言われちゃう」の
主体はだれなのか、だれに言われるのがまずいのか、
妄想の他者を作り上げ、
けっして主語に「じぶん」を置かない手法である。
「ぼくは」とか「わたしは」で語れよ、
と、言いたくなる。
「ぼく的にはそれはいけないとおもうよ」そう言えよ。
じつは「ぼく的」という言い方が
もっともきらいだから、
「わたしとしては、それがいけないことだと存ずる」
うん、まだましだ。
 そう言ってくれ。 

 




 進んでやるのは上の上
まねしてやるのは中の中
言われてやるのは下の下 




小学校でよく言われていたフレーズで
すっかり耳にこびりついてしまっているが、
この箴言の心地よさは「進んでやる」という一点につきる。


つまり、「進んでやる」ところに、
選択、決定権は「じぶん」にゆだねられている
という要素があるからなのだ。 



 ひとに行動を起こされるのに必要な主体は、
権威的な妄想的な他者でもなく、命令権者でもなく、
行動するそのひと、本人なのである。 



ようするに「言われちゃうよ」ではなく
「ぼくはよしたほうがいいとおもうよ」でもなく、
「わたしとしては、それがいけないことだと存ずる」
でもなく、
「わたしは、みずからの判断において
この行為をやめたのだ」という考量である。

 

ハバマースというひとは、意思決定において
「コミュニケーション」、「言葉」が
大事であると語るが、それいじょうに必要なのは、
なぜ、じぶんが、その決定、裁量をしたのかを
可視化することだと、
そう説いたのは、キャン・サンスティーンである。 



 それがいわゆる「ナッジ理論」である。
ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラー教授が
生み出した理論で、サンスティーンとともに
2008年に学会で発表された。
「リバタリアン・パターナリズム」である。

もっとも、端的な例として、男子トイレの小便器に
貼られたハエのマークである。 



 男はあれにめがけて放尿するようになり、
トイレの美化に画期的に貢献したらしい。
清掃費が八割減少したという報告もある。

 

 すべて目に見える効果である。 

 




「もう少し前へ」とか
「きれいに使用してくださりありがとうございます」
なんていうフレーズは一昔まえのことなのだ。

「お前のトマホークはそんなにでかくないぞ」なんていう
アメリカンジョークもあったが、すべては命令的な
要素が残されている。

が、あのハエのマークは、命令ではなく、
みずからの意志を後押ししただけのことである。

ちなみに「ナッジ」とは「ひじで軽く押す」という意味で、
日本語的に訳せば「やわらかい後押し」である。

 わたしたちの意思決定には、どんなありふれた
行為であっても、そこに選択構造が含まれる。

 そのときに、ひとのもつ先入観を利用すると、
選択構造に、ある共通項が見出せるのだ。

 たとえば、スーパーの入り口でパンを焼けば、
パンの購入が増えるとか、売れる商品を目の高さに置く、
あるいは、お茶屋さんはほうじ茶を店頭で焙煎し、
うなぎ屋さんは、あの焼くにおいを街に放出する。

 そして、われわれはそれにつられて、
購入意欲を、無意識的に高め、ついにはそれを求める。

 この無意識的な選択は
意図的に店側がおこなったものである。

 コンビにでも、足跡のマークがあれば、
おのずそこに並んでしまう。

 また、たとえば、
寿司屋さんの「上・中・並」というメニューでは、
「中」を選ぶひとが圧倒的に多い。
 これを「極端回避性」という。
それに、予算は「並」であったのだが、
なんとなく「中」の寿司も安く感じてしまう心理も
そこに働くらしい。それを「アンカリング」とよぶ。

 ちなみに、
指輪を買うときに、予算よりも高いものを
ずらり並べるこきたない店員の手法は
この「アンカリング効果」を狙ったものである。
 すこしでも、高いものを消費者に買わせようとする
魂胆である。

さて、
ナッジ理論とは、ひとの感情・理性の負担を免除する
という美点があり、そもそも、われわれは知的付加の
少ないものに寄り付こうとする性向がそれを担保する。

 が、べつの見方をすれば、われわれの意思決定は
ナッジ理論によってすでに先回りされていると
いってもよい。あるいは、誘導されている。

 ただ、先回りされても、誘導であっても、
人びとはそれに無自覚で、
みずからの純粋な意思決定であると、
この理論にすっかりはまり込んでいながらも、
そこに心地よさを感じているものなのだ。
 その理由は、
その意思決定には、みずからが偶有しているだろう
良心による自発性によるものだという
無自覚的な自覚があるからにちがいない。
 ようするに「じぶんはいいやつだ」という前提が
必要なのである。
「おれが進んで選んだ道なのだ」という感覚である。



 渋谷のDJポリスは「みなさんは12番目の選手。
日本代表のようなチームワークで進んでください」という
あの有名なフレーズで一躍人気を博したが、
これこそナッジ理論なのである。

 民衆の良心にさりげなく訴え、人々の自主性にゆだね、
渋谷の暴動をおさえたのである。

 おい、てめぇら、静かに歩けよ、
このような強権的イデオロギーを発揮するのを
「パターナリズム」といい、これにたいして、
このナッジ理論の実践を「リバタリアリズム」とよぶ。
この理論が敷衍されれば、可視化だけの要因ではなくなり
普遍的な意味合いがふくまれてくる。

 だから、この理論は、政府にも導入され、
たとえば、オバマ政権では、
サンスティーンが一躍買っていたりと、政治利用されることになる。

 リチャード・セイラー氏がノーベル経済学賞を
受賞した理由は、「この心理学的理論が、
経済的に意思決定の分析に組み込み、
市場結果に系統的に影響することを示した」という
ことであったが、前述のとおり、
日本でもイギリスでも、
合衆国でもすでに政治的に応用されているのである。


 ひとは、頭ごなしに「だめ」と言われるのを
忌避する。やはり、どこかに矜持なるものがあって、
それを踏みつけられるように感じるからである。

 わたしが以前の職場で先輩によく言われたのは、
こんなセリフだった。
「お前は、ばかじゃないんだからよ」

 これはナッジではない。たんに、お前はバカだと
宣告されただけである。
 「それ、やめたほうがいいよ」とか、
「言われちゃうよ」とか、それよりもなんか
むなしく腹が立つ言い方だったように、
いまさらながらおもうのだ。