チーン

2018/05/26
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わたしのひとつ上の先輩が

中学校の教員になったばかりのとき

「来年から、人事考課がはじまるんだよ」

と語ったのをおもいだす。

ということは、わたしがまだ学生時代だったような記憶である。

 人事考課という語をそのときまで

知らなかったので、それがなにを意味するか、

いわゆる含意を理解していなかったのだが、

ようするに、校長が一般の教員を

採点するという制度なのだ。

 

 つまりは、トップダウンの権威主義的な

構図が、国公立学校でおこなわれるということに

ほかならない。

 

 理解にとぼしいそのときのわたしは、それでも

しかし、あのとき、なにか「いやな予感」がしたことは、

はっきり覚えている。

 

「いやな予感」というのは、先見的な智恵があるわけではない。

むしろ、未来における想像力が欠如しているので、

なんとなく、そんな気がする、くらいのおもいしか

わきあがらないということだ。

 前未来形の知性があるなら、

その制度はよしたほうがいい、と断言できるのだが。

 

 

 

 もちろん、公務員にはやる気のないやつも

それはいるだろう。が、しかし、

公務員としての教員で、

「じぶんの教育理念を貫くぞ」と、

やる気を出せば、それは、

おのずと各自のオリジナリティと学問的陶冶と

個性的な教育指導という道筋をとおることに

なるとおもう。

 

 教育は血と血のぶつかりあいなのだ。

じぶんに向いている無数の穢れのない目にたいして

そこにどういう正しさを語るか、ものの道理を伝えるか、

というところが教育の本筋である。

個性をもった教育は、そういうところに存在する。

 

 ところが、人事考課という仕組みは、その教員の

モチベーションを、べつのかたちで生産することに

なりかねない。

 

 なぜなら、すこしかわった教育指導をしていれば、

ひょっとすると校長からは減点対象になるかも

しれないからだ。

 

 周りに合わせてやれ、そんな気構えの

トップがいるなら、おもしろい授業が

運営されないではないか。

 

 すると、だいたい気概のない教員は、

校長のお気に入りにならざるを得ない。

 

 毎週、学級通信を出す。

いじめらしい兆候も、マイナスになるので、

クラス内で隠蔽し、なにもなかったようにふるまう。

突飛な発想はしない。

 

 これは、心が生徒にむかっているのではない。

上向き志向のじぶんのポジションの保全か、

出世をのぞむ野心のあらわれなのだ。

 

 このような、トップタウンのヒエラルキーは、

正三角形の図式ではなく、一本のほそい縦軸で

構成されたヒエラルキーであり、正しさよりも

損得を勘定する、教育現場としては

理想的な空間とはほど遠い歪んだ地平が

再生産されるだけである。

 

 権力が一点に集中すれば、

その下部を構成する人員の自由度は減少し、

たくさんの「お気に入り」がうまれるだけである。

 

 じっさい、自由とは制度に隷属したときにあると

論破したのは、アルノルト・ゲーレンだが、

その制度というものは、校長の裁量下の制度ではない。

 

 公務員という立場を担保する国家制度のことだ。

チェスタートンの「絵画の本質は額縁にあり」は、

「教員の本質は制度にあり」と同義ととらえることが

できるわけだが、つまり、額縁という決められた

フレームワークのなかでも、そのなかで

自由な創造活動はできる、ということなのである。

 

 いちいち、校長の視線を気にしながら、

点数稼ぎをしているのでは、おもう存分の教育活動が

できないのではないだろうか、と、わたしはおもう。

 

「お気に入り」の画一教育ならAIにやらせておけば

いいじゃないか。

 

 官僚の人事権が政府に譲渡されたことが、

権力の一点集中につながることは、人事考課の図式からも

自明のことである。

 

 国会議員は落選すれば資格をうばわれるが、

また、当選すれば復活する、が、官僚が

いちど政府から見放されれば、二度と出世はない。

 

 これは、チェック・アンド・バランスの

構図を根本からくつがえす悪政であるとおもう。

 

 官僚は、公平に国民のために正義感をもって

尽くしてもらいたいものだが、いまや、

あるものを「ない」といい、

会ったものを「記憶にない」といい、

政府の指示はないといい、

相談は受けたが首相には報告していないといい、

値段については語ったが、

価格については語っていないといい、

高プロ政策をやめてくれという民間の

切なる声は抹殺され、

偽造のデータで法律をとおす。

すべては、うそだらけである。

 

これは、ひいては国民軽視の犯罪にちかいものだと

おもうのだが、すべては、権力集中の細長い縦軸の

ヒエラルキーが支配した結果だといえよう。

 

ひとは、ネオテニィ、弱いものである。

 

じぶんの立場の保全のためなら、

正義や倫理や道徳は無意識の部屋に閉じ込めてしまうのだ。

これを認知的斉合化というのだが、

もっとかんたんに言えば「情けないやつら」である。

そして、そんな「情けないやつら」で構成された世の中を

アノミーとよぶ。

 

 アベノミクスの三本の矢はすでに折れている、

そういう識者はおおいが、わたしは隠し弾に

四本目があるとおもっている。

「友だち優遇政策」である。

これだけは、成功しているわけだが、

その反動は大きすぎたわけだ。

 

 違憲状態で選ばれた議員が、

いま、違憲である自衛隊法を変えようとしている。

自衛隊法が違憲であるということを

最高裁は語っていない。

語っているのは、いまの選挙制度が違憲であり、

即座に是正しなくてもいいが、いずれ是正すべし、

その状況を「違憲状態」というらしい。

その「違憲状態」の議員たちが、違憲でもない自衛隊の

ルールを変えようとしている。そこにもうひとつ、

みずからの立場が違憲でないように

憲法を改正しようともしている。

すばらしい。

これは、石川五右衛門が「この盗人め」と

ひとに語るようなものである。

 

 

 

 

 自民党はすでに壊れた。

小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」と叫んだが、

ほんとうに、ぶっ壊したのは、安倍晋三だったのだ。

へそと口と筋をまげた麻生太郎とともに。

 

 

 文化資本のうち、家庭内で身につけるべき

領域を「身体化された文化資本」というが、

議員になろうとするひとも、教育者も、

ひょっとするとわたしも、もういちど、

子どもにもどって文化資本を身につけさせ、

じぶんの損得だけでなく、正義、ほんとうのウェルフェアを

学びなおさねばならないのではないか。

 

 それができないならば、せめても、

いま学び舎で、教員の教えを受けているものたちからでも、

なにが正しく、なにがひとの道なのか、

それを、教員が正しく教えてもらいたいものである。

 

 数年前まで、わたしが勤めていた高校は、

偏差値の底辺な学校だった。ボトムな階層の子を

預かっていた。だから、休み時間など、当たり前に、

男子生徒のひざの上に女生徒を乗せ、

胸をいじったり、キスをしたり、それが日常であった。

 

 ほとほと呆れたわたしは、そのクラスの

担任、わかい体育の女性の教員だったが、

彼女にわたしは進言した。

「あの二人、やめさせてくださいよ」

と、彼女はこう答えた。

「いえ、あの二人、もう別れました」

「・・・」

 

 なにをかいわんやである。

しかし、わたしがもっと呆れたのは、

女性教員の言葉だけではなかった。

 

 それを聞いていた、まわりの職員が

彼女の言葉を聴いて、笑い出したことだった。

 

チーン。