お気軽にお電話でご連絡ください
お気軽にお電話でご連絡ください
11:30~14:00/18:00~22:00(平日はランチのみ)
店にタケダ家がくる。
ナナコの嫁いだ家である。ナナコの上の娘は歩いて、
うまれたばかりの子はカンガルーの
袋のようなものにくるまれて来た。
ナナコの母もきた。
「お前、前髪切ったのか」
と、わたしが訊くと、
「切ったよ。へん?」と娘は答える。
「いや、変じゃないよ。
ただ、顔が世界に露出しただけだから」
と、わたしがあいさつすると、
横で皿洗いをしていたカワダ君が、
「ぎこちない親子の会話ですね」
と、笑いだした。
「お前、うるさいよ。いいじゃないか、
お前に言われる筋合いはない」
と、わたしは彼をたしなめるように言う。
「な。知ってるか。ユイの子どものスプーンの持ち方、
あれ、変だよねってサチコ言うもんだから、
おれ、スプーンの持ち方くらい
なんでもいいじゃないかって言ってやったのよ」
「それ、知ってる。その冗談のどこがおもしろいのか、
わからない」と、ナナコは、彼女の娘がじょうずに
おかゆを食べているのを横目で見ながら、そう言った。
「ユウ君ね、おれは、子どもたちに、
こっぴどく食べ方を注意したんだよ、ちいさいころ」
「はあ」とナナコの夫は答える。
「箸の持ち方、鮨の食い方、みかんの剥き方、
すべて、こまかく教えたんだ」
「みかんってどう剥くんですか」
「ん。まず、まんなかに指いれて、
四等分するんだな、そしてヘタのほうから
するする剥くんだよ、これ、小笠原流」
「あ、それナナコの剥き方だ」
どうも、小笠原流のみかんの剥き方を
「ナナコの剥き方」という名称が、
タケダ家ではついているらしい。
「だから、そのおれが、食べ方なんか
どうでもいいって言うのが、おかしな話なわけよ」
「だから、そこのどこがおもしろいのか
全然わからない」と娘は言う。
カワダ君に言わせれば、こういう会話も
親子の会話ではない、ということなのだろう。
娘夫婦が帰った後、何気なく、
出世のことをかんがえていた。
踊る大捜査線の室井管理官などの立場を
なんと言うのか、健忘症のように失念したのだ。
「カワダよ。ほら、エリートとして
警察に入ってきて、さいしょから、
警部補になってさ、入署そこそこで、
すでに、部下がいるようなやつ、なんて言ったっけ。
ほら、一流大学を出てさ。たしか、漢字二字だったよ」
「えーと、なんでしたっけ」
カワダ君も即座に答えられずにいる。
「ものすごい簡単な言葉なんだよ。漢字で二文字よ」
じつは、わたしの「漢字二文字よ」が、まずかったのだ。
わたしは、もどかしさのあまり、いらいらした。
喉もとまで出かかっている。あと少しだ。
うーん。わからない。喉のあたりまで答えがでかかっているのを
英語では「リング ザ ベル」というらしい。
が、簡単に言えば、こういう状況をボケという。
しかたなく、ギブアップのわたしなので、
ナナコに電話した。ナナコはまだ拙宅にいるはずである。
「なに」
「うん、警察官僚でさ、一流大学から
エリートで入ってくる人たちをなんていうんだっけ」
と、ナナコは言下に答える。
「キャリアじゃない?」
「そーだ、キャリアだ」
漢字二字、という間違った情報から
思考回路が動き出したので、外来語まで
頭がまわらなかったのだ。
京浜東北線に乗りながら、
なんで「目黒」に着かないのだろうと
悩んでいるようなものだ。
「脳が死んでるんじゃない?」
と、娘はあっさりと電話口から言った。
たしかに。
娘との会話がぎこちなかろうと、どうであれ、
どうも、思考停止になってきているのではないかと、
じぶんでじぶんが恐ろしくなってきたのだ。
そういえば、
ずいぶん前だが、職員室でわたしども
教員三人がお茶を飲んでいるとき、
わたしが、その二人に尋ねたことがあった。
「あのさ、酒を飲むときゅうに強くなる映画
ありましたよね。カンフーでさ。
酔拳というタイトルですよ。えっと、だれだっけな。
ジャッキー・チェンじゃなくてさ、えっと」
この「ジャッキー・チェンじゃなくてさ」が
まずかった。けっきょく、われら三人は、
このあと瞑想の世界に入り込むことになる。
解答を否定したところからの
命題だから、ほとんどアポリアなのだ。
おそらく、脳の停止はそのころから、
すでにはじまっていたのだろう。