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・雨の夜のわたしはわたしと二人連れひとりは濡れてひとりは歌を
窪田政男氏の『汀の時』からの一首。
「わたしはわたしと二人連れ」という哲学的な切り取り方が
個性的である。「じぶん」と「もうひとりのじぶん」がいる。
そのひとりは、雨に濡れている。もうひとりは歌を、である。
この「歌」は、「短歌」なのか、あるいは、「歌唱」なのか、
それともそれ以外か、そこは語っていないので
読者の想像しかない。
北山修というひとが語っていたが、大人とは二重人格を
背負って生きているという。その二重人格とは、
大人の「わたし」と子どもの「わたし」である。
ひとは、子どもをどこかで捨て去ったわけではない。
かならず、大人のどこかにじぶんの子どもがいる、
ということで、その子どもがひょんなときに
ひょんなように飛び出してくる。
酒をしこたま飲んだときとか、
カラオケで盛り上がったときとか、
むやみに野原を走ったときなど、
子ども時代のじぶんがじぶんを凌駕する。
が、また、ひと段落着けば、その子どもは
しずかにじぶんの胸うちに収まっていくというのだ。
窪田さんの歌の「ふたり」は、大人と子どもとの
対比ではない。どちらも、同じ年齢の同じ「わたし」である。
そして、そのふたりは、向き合っているわけではない。
どちらも「雨の中」を同じ方向を向いて歩いている。
サン・テグジュペリが
「愛とはお互い見つめあうことではなく、
共に同じ方向をみつめることである」と語るが、
この作品も類比的である。
さて、この作品をどう読み解けばいいのだろう。
まず「雨の夜」とはなにか。
われわれは、生者と死者と自然とによって
生きていると語ったのは、内山節だが、
日本人は、自然を、自家薬籠中のもの、あたりまえのものとして、
受け容れることができる。だから、
雨がマイナスになることもあるが、その雨が作者の
心象に侵食し疵付ける道具として機能していないこともある。
いったい、どちらなのだろう。
ここも読者に解釈を預けている。
主体的読者の介入を「懇請」というが、
読者として出かけてゆくと、かならずビーコンとして
なにかの信号かあるのだが、そのヒントが「歌」だけなのだ。
この「歌」が、どういう歌なのかによって、
逆算したところの「雨」にもコードが代入できるわけだ。
シンギングの歌なら、欣喜雀躍、心地よい足並みで
雨の中を闊歩するだろうが、短歌なら苦吟かもしれない。
『ささめごと』という心敬の歌論に
藤原定家が父の歌作の姿を
「直衣のすすけたるをうちかけ、
古き烏帽子耳までひき入れ給ひ、
脇息により、桐火桶をいだき、詠吟の声、
しのびやかにして、夜更ひとりしづまりぬるにつけて、
うち傾きよよと泣き給へる」と、
幽暗、静寂、質素、集中、孤独のなかにおいて
それでも歌が詠めずに「よよと泣」く、
そんなくだりがあるごとく、歌を詠むとは、
なみたいていの作業ではない。
もし、窪田さんの「歌」が、このような
苦行のすえの結果なら、この「雨」は、
じぶんを濡らすにじゅうぶんな「哀しみ」をもち
「わたし」に降りかかってくることだろう。
しとしとと降るしずかな雨のなかにである。
つまり、この歌を解釈するばあいに、
どの階層で読むかは、読者の立ち位置によって、
ずいぶんと分かれる歌となるだろう。
管見であるが、わたしは「濡れ」ている「わたし」と
「歌」を詠む(「詠む」のか「見る」のかもじつは語っていない)
じぶんとは、同じ温度で、ふたりの人格がひとりのなかにいるとは
いうものの、それは截然とわけることのできないじぶんであり、
そのじぶんに、どことなくアンニュイさを漂わせ、
そして、ふたりの「わたし」を置き去りに、
他所から、じぶんを静観しているのではないかと
おもうのだ。
じぶんを含む風景をべつの場所からながめることを
ヘーゲルは自己意識と呼んだが、まさにこの歌は、
そういう図式が成り立っているのではないかとおもう。
なぜなら、このわたしふたりを、作者は
同時に見られないからだ。
ゲシュタルト心理学で有名なルビンの壷がある。
ふたりの女性が向き合っている絵であるが、
中央に視線をうつせば、壷に見える、あれである。
あのルビンの壷の急所は、ふたりの女性に目を移せば、
壷は絵から消え、壷を見ているときときは、
女性が見えなくなるところである。
『山月記』の李徴がみずからを語るとき、
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とに分節したが、
その心理領野において、
「臆病な自尊心」を語るときは「尊大な羞恥心」が見えずに、
また、「尊大な羞恥心」を見たときは
「臆病な自尊心」が消滅しているのであり、
つまりは、李徴の心の中の絵柄は、
見る箇所をすこしずらしているだけで
じつは同じ図を見ているにすぎない、
という事情とかわりない。
つまり、ひとりの中のふたりのにんげんを
当事者が、同時に見ることはできないということなのだ。
よって、「ひとりは濡れてひとりは歌を」と詠む作者には、
みずからの自我構造の中においての同時的認識は
不可能であるとおもう。
ようするに、窪田さんがこの作品を手がけたときは、
おそらく、雨も降っていない空間で、
みずからを、別の場所から眺め
みずからを雨の降っている空間に配置させ、
自己意識のかぎりを作動させて作歌したのではないだろうか。
そして、その作歌の空間こそが、読者の立ち位置と
同じ水平下であったような気がしてならないが、
それは読みすぎだろうか。