商売がら

2018/07/09
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「社長、だいじょうぶですか」 
ドラッグストアから急いで戻ってきたパートの堀田さんが言った。
 たしかに、わたしは店の椅子にもたれて
そのまま寝ていたらしい。下をむいてもめまいがするし、
上をむいてもだめだ。
ようするにひどい車酔いのような状態で、
立つこともままならず、椅子にすわり
なるべくまっすぐに
目を閉じていたら、寝てしまったようだ。
 わたしは堀田さんの声で目をさまし、
彼女のほうを見た。
「死んだかとおもった。顔色わるいわよ、土気色してる」
 どうも、ほんとうに具合がわるいらしく、
顔色にまで出ているようだ。
 それは、昨日の夜からはじまった。
青葉台で授業をしているとき、風邪をひいたわけではないが、
なんとなく気分がすぐれない。テキストに目をおとせば、
すこしくらくらする。めまいの兆候である。
 来た。
 わたしは、年に数回、こういうことがある。
そのたびに、近所の耳鼻科に行くのだが、
このあいだ、「もう、うちに来ても治せません」と
女医さんから引導を渡され、けっきょく、症状はあるものの、
その理由がわからないということで「けり」をつけられている。
 ただ、薬だけはもらっていたので、わたしはすぐ
常備薬を飲む。が、これがあまり効かない。
 生徒には、「悪いが今日はすわって授業するよ。
原君、もし俺が倒れたら救急車たのむな」など言いながら、
どうにかこうにかその日は過ぎたが、
寝るさいには、すでに天井がかなりの早さでまわるのだ。
これが、すこぶる難問である。寝るしかないが、
寝るとまわりはじめる。めまいの激しい女性は、
横になれないので、箪笥にはさまって立って寝る、
という話を聞いたことがあるが、それもおおげさな
話ではない。寝たいけれども寝ると具合わるい。
こういう難問もアポリアというのだろうか。
「薬屋でビタミン剤もらおうとしたら、
めまいにはこれがいいって」と彼女は、
酔い止めの薬を買ってきてくれたのだ。
堀田さんが、こんなふうにわたしのために
ドラッグストアにありがたいことに駆け込んでくれたのは、
この十数年、はじめてのことである。
よほど、わたしの具合がわるいとおもったのだろう。
「今日、夕方からどこに行くんですか」
「新浦安で授業なんだ」
「やめたほうがいいよ。あぶないですよ」
「うん、そうかもしれない」
 わたしは、予備校の授業を、具合が悪いからとか、
母が亡くなったからといって、ここ十七年間、
休んだことはいちどもない。皆勤賞なのである。
 しかし、今日は、はたして千葉まで行けるだろうか。
不安である。なにしろ、駅の天井から吊るされている
つぎの電車の時刻をしめす案内表示を見上げるだけで、
ふらっとするくらいだから。
 わたしは、酔い止めを一錠のんで、帰宅し、
風呂につかる。風呂は、下を向いたり上を向いたり
せずにすむのでありがたい。
 けっきょく、わたしは、新浦安に行くことにする。
というより、休むという選択肢はまずなかったのだ。
だれになんと言われようと行くのである。
それは、敗戦をまじかに迎えた陸軍の若手将校のような
向こう見ずにも通ずるかもしれない。
 
 一時間すこしかけて、わたしは新浦安に着く。
授業の時間には、すこし余裕がある。
 わたしは、ふだん、ジャンクなものは食さないが、
金曜日だけは、わが身にご褒美ということで、
コンビ二でカップ系のものを食することにしている。
 今日は、なんとなく「天ぷらそば」が食べたくなった。
廉価なもので、お湯を注いで三分待つやつである。
 レジの端っこでお湯をそそぎ、上にのっている
かきあげは、袋ごと捨てる。揚げ物は食べないからである。
つまり、わたしは、インスタントの「かけそば」を
食べようとしているのである。つゆは、食べる前に
入れてくれと書いてあるので、そのとおりにする。
「香味七味」というものもついていて、
これも食する前にかけよう。ゆいいつのぜいたくである。
 さて、カップを持って店を出る。と、コンビ二を出た直後、
ビル風なのか、突風がわたしを襲い、なんと「香味七味」が
飛んでいってしまった。見れば、植え込みのなかに、
赤いパッケージの「香味七味」が落ちている。
 たのしみにしていた「香味七味」である。
が、ここで、下を向くと、おそらく持っているカップも
無事ではない気がする。わたしはあきらめた。
 
 けっきょく、なにも入っていないそばを
塾のすみっこですすりながら、一時間目の授業をする。

 授業に入る前には、落語とおなじく「まくら」がだいじだ。
まったく関係ない話であるが、授業のはじまりには必要な時間である。

「いま、そこのローソンでカップのそばを買ったんだが、
おれは、上に乗ってる天ぷらは捨てるんだ」

「え。捨てちゃうんですか」

「そーよ。揚げ物は食べないからさ。で、カップの上に
あとから入れろっていうつゆと香味七味を乗せて
コンビ二出た瞬間、風が吹いてさ、香味七味が飛んでいったのよ。
それが植え込みの中に落ちちゃってさ、
で、いまめまいがひどいんで、下向けないからさ、
まだ、植え込みのなかに香味七味あるから、
欲しい人は、取りに行けばまだあるぞ」

生徒さんたちから笑いが起こった。

商売がら、命がけでギャグを言わねばならないのだ。