マドンナ古文単語の悲劇性

2018/07/22
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 『マドンナ古文単語』を必死におぼえている

受験生がいる。すばらしい。

 なんでも、その一冊に集中するというのは

受験生にとってかけがえのない姿勢である。

 

 また、わかいスタッフは、古文の単語といえば、

『マドンナ』を推奨、あるいは、その他の単語の参考書、

(といっても、わたしはあまりよく知らないけれど)

を推して、ややもすれば、その参考書を利用して

単語テストなるものを作成し、生徒に配布するものもいる。

 

 それはすばらしい労力である。

伝統的学習観からすれば、あるテキストを中心に据え、

それにたいして、学び手が正しく理解し吸収したのかを

テストという方式でおこなうというのが

もっとも常識的であるからだ。

いわゆる単語テストである。

 

 一問一答形式でそれをすれば、

そこに教え手と受け手という融和関係が形成され、

和やかな教育の輪がうまれたりする。

 

 いい空気感じゃないか。

 

 

 

 さて、古代の語彙と現代の語彙と

どういう点に相違があるのかといえば、

活用のあるものに、その特徴をみる。

 

 じっさい活用、つまり語尾変化しない語は、

その意味を変えないものが多い。

とくに名詞などは、ほとんど意味をくずさないまま

われわれは使用している。

 

 「山」といえば「山」だし、「川」といえば「川」である。

接続助詞の「が」なども、鎌倉時代に生まれたのだが、

その用法は、いまも変わりない。

 

 が、動詞や形容詞といった語尾変化をするものは、

意味を変えつついまに至っている。

 

 たとえば、「恥ずかしい」は、古語では「恥づかし」である。

語尾の「い」が「し」であった、なんていうのは、

看過するとして、意味的に、いま「恥ずかしい」といえば、

総理の答弁とか、官僚の公文書偽造にたいして

使うことばである。

 

 が、古代語では、「恥づかし」は、大別すると

二種類の意味がある。ひとつは「恥ずかしい」と、いまとかわらないが、

もうひとつの意味は「立派だ」である。

 

 「恥ずかしい」という意味内容は、みずからの心に付着するもので、

「立派だ」は、むしろ、対象のそのものにたいする表現である。

 

 この、みずからの心に湧く感情をあらわす形容詞を

主体表現とよび、対象に付着する様態をあらわすものを

客体表現という。

 

 たとえば、うれしい、悲しい、おいしい、などは主体表現。

かわいい、白い、めまぐるしい、見苦しい、などは客体表現である。

 

 この差異は、わりにファジィであり、感覚的なものといってもいい。

 

 嘆かわしい、とか、臭い、などどちらにカテゴライズすべきか、

迷うからである。(わたしは、客体にするけれども)

 

 が、「恥づかし」における、主体表現は「恥ずかしい」

客体表現の「立派だ」は、その選別が容易であり、

このように、一語のなかにおいて、わりに明確に

主体表現と客体表現とを偶有する語が、何十語かあり、

そういう語のことを「主客未分の形容詞」とよんでいる。

 

 たとえば、「かたはらいたし」などは、

主体表現では、「恥ずかしい」であり、

客体表現では「苦々しい」である。

 

 

 この主客未分の形容詞は、古代語にだけ

みられる現象であり、成熟した、あるいは劣化してきた

現代語では、主客未分は存在していない。

 

 必ず、どちらかにカテゴライズされている、

というのがいまの学説である。

 

 この、主客未分の事情を知らない教員もいて、

「じぶんが恥ずかしくなるくらい相手が立派だ」

なんて説明してドヤ顔をするズブのシロウトもいる。

 

 わたしは、古語の形容詞のもっとも根幹的なところに、

この未分化をあげるのだが、

この形容詞は主客未分である、と、そう説く参考書を

わたしは知らない。

 

 少なくとも『マドンナ古文単語』は、それを

いっさいネグレクト、表記していない。

 

 つまり、わたしに言わせれば、

『マドンナ古文単語』は、もっとも枢要な部分を

欠いて一冊の本にしているということである。

 

 そのもっとも大事な部分をしらずに、

生徒がそれを丸暗記したところで、もっとも

肝心なところが、受験生から抜け落ちているという

悲劇はまぬがれない、ということである。

 

 なぜ、荻野先生は、こんな肝心で重大なことを

書かなかったのか。

 

 それは、参考書だからである。

 

 参考書というものは、もっとも大事で崇高なことは

書かないというのが世の常なのである。

 

 横浜高校の野球のピッチングコーチは

優秀で、ほとんどプロ並みだそうだ。

 

だから、松坂大輔が、西部に入団したとき、

おまえに教えることは何一つない、と、

ライオンズのピッチングコーチに言わしめた、

という逸話があるほど、横浜高校はすぐれているらしい。

 

 そのコーチが、松坂大輔に教えたことをそっくり

参考書にしたためたら、

まず、どの野球少年も、あるいは、どの監督、コーチも

また、野球関係者なら猫も杓子もその本を買うことだろう。

が、そんな参考書はあるはずない。

 

 『これが、横浜高校野球部だ』なんて本が

世に出回れば、どの学校も、

横浜高校野球的になってしまうではないか。

 

 知りたければ、うちの学校においで、そういうことだ。

 

 

 もちろん、荻野文子が、主客未分を知らないはずはない。

おそらく、教壇に立てば、まっさきに

それを教授するに決まっている。

 

しかし、そればかりではなく、

彼女のもっともおそろしいところは、

『マドンナ古文』という別の参考書で、

「接続助詞の『て』は、95パーセント主語が変わらない」

と、書いていることである。

 

 文法を語るとき、けっして使ってはならないのが、

数字である。

 

 なぜ、95パーセントなのか。それは感覚だからだ。

 

われわれの感覚を数字に還元すれば、ものすごい説得力が

生まれるが、それにだまされてしまう生徒に

うまれる悲喜劇に、荻野先生は責任もてるのだろうか。

 

 世の中に、どれほど、接続助詞の「て」が存在するのだろう。

九十九里浜の砂くらいに存在するだろう「て」のすべてを

彼女は調べ、そして主語を精査して、95パーセントと

言ったのだろうか。

 

 それなら、その分母と分子はいくつなのか、

教えてほしい。

 

 ほら、やはり感覚で言っているのである。

 

 

 どこのどの文を使ってもいい、たとえば、

『紫式部日記』のくだり。

 

 「うへまゐりたまひて、うへ、殿上に

いでさせたまひて、御遊びありけり」

 

 ここに「て」が二度でるが、最後の「御遊びありけり」の

主語は「御遊び」である。

 つまり、この「て」の上下の主語は、「うへ」と「御遊び」で

あるから、主語は入れ替わっている。

 マドンナの説がただしければ、これは、残り5パーセントの

例外となる。

 

 たとえば『和泉式部日記』。

 

 敦道親王()と童とのやりとりである。

 

(宮が)『さは、今日は暮れぬ、つとめてまかれ』 とて、

(宮が)御文書かせたまひて、たまはせて、(童が)石山に行きたれば、」

 

「て」の上下で主語が変わっている。これも

残り5パーセントにカテゴリーされるのだろうか。

 

 わたしは、古文を教えて40年いじょうになるが、

「て」の上下で主語がかわる例を山ほどみてきている。

あの95パーセントはなにを意味するのだろう。

 

 

 わたしが、もっとも危惧するのは、

そのデタラメ、虚偽を盲信するバカ教師が輩出されることである。

 

荻野文子の慧眼は、数字に還元させる説得性であったが、

それは、諸刃の剣、教師生命を絶ってもおかしくないほどの

失態だったということに、自覚しているのだろうか。

 

 

 ジークムント・フロイトいうひとがいた。

19世紀を代表する精神分析学者であることは

言うまでもない。

 

 かれのもっとも、重要なことは「無意識」の発見である。

にんげんには「無意識」の領域があって、

その「無意識」こそが、にんげんの本質であると説く。

それなら、いままでの、古代哲学者やもろもろの識者は、

すべて「意識下」においての言説なのだから、その言説は

ただしくない、と過去の学説を全否定するわけである。

 

「無意識」の中にこそ真理がある、ということである。

 

 

 そこに、フェルディナン・ド・ソシュール(1857)

参画させてしまうと、もっとやっかいである。

 このジュネーブ大学の言語学教授は、

言語の研究をつきつめた結果、言葉のあいまい性と

限界にたどり着く。

 

 言語には、語り尽くせない「記号内容」領域があり、

そこは、言語化されていない、ということに気付くのである。

 たとえば、「ゾウ」と表記されても、

われわれは、あの鼻の長い耳のでかい、

大きな生き物を想像してしまう。その想像領域が

「記号内容」(ソシュールはそれを「シニフィアン」とよんだ)があると、

そう説いたのである。

 

 もし、そうであるなら、古代からいままでに

語られてきたすべての言説は、どこかにあいまい性が含まれ、

手を替え品を替えて語られたことは、すべて正しくない(ものを含む)

ということになる。

 

 だから、ソシュール先生は、言語というものをいちど取っ払って、

もういちど、社会のシステムや人間関係性から、

現実を見直そうとしたのである。

 

 いわゆる構造主義の開花である。

 

世の中というものにおいて、その「あいまい性」、不確実性が

露呈されたときは、その言説やら、書物やら、そのにんげんは、

いちど否定されるべきなのである。

 

 

 そうやって、世界は日進月歩の営みをくりかえしてきたはずである。

 

なのに、どういうわけか、マドンナシリーズは、

いまも健在で、それを信奉する輩があとを絶たないのは、

わたしには、いささか不思議であるし、不安である。

 

 あんな、ものをはっきり書かない、あるいは、

うそのかんぱち、まったくデタラメがまかり通っていいのだろうか。

 

なら、古典単語はどうやって理解や覚えればいいのか。

 

わたしは、関係各位にあえてものを申すが、

たしかに、言葉に対するあいまい性は認めるが、

じぶんで、じぶんなりに、古典単語の本を書くしかないのである。

 

 

発端と結末とで区切られたできごとを

アリストテレス以来の伝統にしたがえば「ものがたり」というが、

たとえば、「いとほし」という古語は、

もともと、「厭う」から由来し、

「いやだ」という意味であったものが、

しだいに「同情する。気の毒だ」という意に変遷し、

あげくに「いとしい」になる。

 

 これが、発端と結末である。

 

単語には、こういう「ものがたり」がある。

 

わたしの『古文単語ものがたり』は、

その語の「発端」と「結末」を載せている。

 

そして、わたしはわたしの生徒さんには、

この『古文単語ものがたり』を差し上げているのである。

 

 もちろん、無料で。