SNSの功罪

2018/08/01
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 歩きながらスマホを見ているひとがいて、

それが、予想もつかない事故を起こしているらしい。

日常生活にきってもきれない、というより

ひとの一部と化してしまったようなスマートフォンである。

 電車の中でも、おおよそのひとはスマホに目を落としている。

いずれ、エクサフラッドを起こして、SNSを含めた

大規模な電波の停止がくる世の中をむかえるかもしれないが、

さしあたり、いまは、このシステムによってわれわれは生かされているといっても過言ではない。

 携帯やパソコンがなければ、

大衆離群索居、つまり、社会からひとり疎外されたような気になるからだ。

 

 たしかに、SNS、スマートフォンやパソコンは情報社会には

欠かせない道具である。

 

 FacebookTwitterLINEなどの代表選手をおもえば

容易にわかることである。

 

 そもそも、「情報」とは森鴎外の造語といわれている。

「社会」もsocietyの訳語として明治期に誕生した語である。

 

 つまり、「情報化社会」という語は、自然言語ではなく、

われわれが、欧米から取り寄せたあたらしい価値概念の

オプションであった、いわゆる道具概念なのである。

 

 もちろん、オプションではあるものの、

ニンゲンはネオテニィ、欠陥存在であり、

本能の未熟な状態で生まれてきたわけだから

文化や制度というプログラムが外部からインストールされて

はじめて世界が規定可能になるというアルノルト・ゲーレンの

言説をまつまでもなく、「情報化社会」も、

その概念をインストールして、

わたしたちは社会の中に存在しているという

事実は否定できない。

 

 つまり、「情報化社会」を否定してまでは

生きるのが困難である、ということだ。

 

 

 ところで、SNSは個人情報がただ漏れだ、というデメリットをあげるひとがいるけれども、「個人」もindividualの訳語であり、

「個人情報」そのものも外部からのインストールであることは

まちがいない。

 

 わが国では「みんなといっしょ」という

考量がDNAに備わっているとみえて、

ひとりが「個人情報」と騒ぎ始めると、

蟻の一穴、みなが騒ぎ始める。

剣持武彦に言わせれば、

それは、農耕民族性にかかわる問題だというが、

まわりをきょろきょろ見ながらの生活ぶりは、

おおよその国民の風土なのであろう。

 

 ここで、はたして、われわれは、ほんとうに「個人情報」を

そんなに気にする国民だったのだろうか、という

ラジカルな問いが浮上するのだが、いたしかたない、

いまの世の中に照らし合わせて、個人情報漏洩を

気にするとしよう。

 

 なら、一軒、一軒、表札をはずせよ、と言いたくもなる。

年賀状いちまいも来なくなるぞ。

 

 しかし、じっさい、SNSの利用にさいしては、「規約」に同意しているわけで、「プライバシー」という項目があって、

個人情報漏洩は覚悟のうえ、というプラットホームに

われわれは立っているので、

「どうしてくれるんだ」というクレージィ・クレームは

成り立たないのであるけれども。

 

 さて、パソコンの普及により、

メディアで報じるよりも、いちはやく情報をわたしたちは、

手に入れことができるようになった。

 

 アイルトン・セナの訃報も、メディアよりも、

いちはやくインターネットが世界を駆け巡った。

 

 情報とは移動である。生産性はないまでも、

その移動のはやさは類を見ない。

情報とは、はやく入手するものが多くのベネフィットを得、

おそいものが損をする装置である。

 

 

 できるかぎりはやく情報を得ること、

それがこの世の勝ち組である。

 

 SNSの美点は、たとえば、災害時の緊急連絡や情報提供に

すこぶる役立ったということである。

 

 淡路阪神大震災、東日本大震災、熊本地震など、

家族との連絡がとれたことなど、その存在理由は

かけがえのないものであった。

 

 分断された家族の絆をつなぎとめる大きな役目をはたしたのである。

 

 そればかりではない。けっして邂逅することのなかった

ひととつながることができたのも、SNSの力である。

 

 行ったことのない北の地や南国のひととさえ、

友人関係をむすぶことも可能である。

 ネアンデルタールシスの時代やノマドの生活、あるいは、

定住社会しか経験できなかったステージを考えれば、

この無限の拡がりは、想像をはるかに超えたパライゾかもしれない。

 

 その拡がりでいえば、Twitterなどは、その速度と拡散の

範囲ははかりしれない。

 

 ある情報の喧伝・伝達には、手っ取り早く不特定多数に

ゆきわたる。それも、無料である。ここにSNSのもうひとつの

利点がうかがえる。どれだけ、情報発信をしても

金銭的に痛みがない。

 

 ツィッターにかぎることだが、

ツィッターは、フォロアーにだけ、その情報が送られるが、

リツイートによる、不特定多数の読み手が存在するので、

仲間以外にも、その「つぶやき」が披露されることとなる。

 

 しかし、ここで問題になるのは、仲間以外が「仲間」として

参加しているのか、まるで関係ないひとたちなのか、ということである。

 

 

 アリストテレスは、大規模定住社会は、

仲間を守ることも大事だが、疑似仲間も必要だと説いた。

 

 疑似仲間とは、大規模定住社会には、

仲間ではないけれども、仲間だろうとする大集団が

存在するという想像である。

 

 

 そうでなければ、戦争で逃げて、また社会を

作ろうとしたところで、疑似仲間がいなければ

大規模定住社会は成り立たないからである。

 

 進化生物学の正しさとは、どれだけの仲間を守れるかを

評価する心の働きを起源としているのだから、

仲間おもいは、必要十分条件なのである。

 

 

が、しかし、Twitterのフォロアーのまわりに存する

リツイートから訪れたひとは、その発信したひとを

まちがいなく、仲間だとはおもっていない。

 

 その文面が、じぶんにとって不快であれば、

まるで当事者のようなふるまい方で、反論する。

いわゆる炎上である。

 

 竹内俊尚の『当事者の時代』では

「いつから当事者でもないくせに、弱者面して憑依して

でたらめを言うようになったのか」と頭を抱えているのだが、

とくにTwitterでは、じぶんのおもうままの感情に乗せて

つぶやけるのだから、ちょっとムカつくことがあれば、

すぐ口を尖がらせるひとが出る。

「ひとの勝手だろ。バーーーーカ」なんてやり返してくる。

 

 ほんらい、言葉とは、相手をすっかり感心させたり、

気持ちよくさせたりするために機能すると説いたのは、

丸谷才一である。

 

 仲間意識も希薄で、みずからの感情のおもむくままに、

そして道徳規範も精神的なインフラも整っていないうちに、

普及してしまった、便利で凶暴な装置がSNSの正体だったのだろう。

 

 ひとを感心させたり気持ちよくさせたりする中身は

すでにどこかに葬り去られた感がある。

 

 感情の劣化が叫ばれている時代である。

ある感情の劣化はあるリソースの配置によって

必然的に起こりうると説くフランクフルターのオーソドックスな

言説にしたがえば、感情の劣化は避けられないことかも

しれないが、その劣化に輪をかけるようなしかたで

SNSが機能していたとしたら、

世の中がますますすさんだ事況になるのは

自明のことである。

 

 感情の劣化にかんしては、たとえば、

リチャード・ローティなどは、「憤れ」と説く。

すでに知性の教育では成り立たなくなっている世の中、

「感情の教育」こそがだいじであるとかれは言う。

いわゆる「センチメンタル・エデュケーション」である。

 

 あるいは、正義論で有名なジョン・ロールズが言うように、

「君がわたしでもそれに耐えうるか、君がわたしでも同じ行動をとったか」という立場を構築しなくてはならないのかもしれない。

 

 はたして、この潮流をくいとめることができるのか、

あるいは、この劣化の潮流とともにSNSがながされてゆくのか、

これからの初等教育、あるいは教育全般に

ゆだねるところが大きいのではないだろうか。

 

 

 さて、SNSなどのフロー型のシステムは、

前述したとおり、みずからの速度や発信性能や拡散の能力は

すぐれているが、知識の積み重ねとか、知の蓄財という

点ではまったく機能しない。

 

 黒崎政男が言うように、情報の価値は二分されており、

「情報の価値に大きくかかわるものとそうでないもの」がある。

 

台風情報などは、その情報をいち早くうけとめたいのだが、

文学や思想などは、「伝達速度や時間的経過で価値が大きく

変化することはない」(『速度礼賛から時の成熟へ』による)

 

 ハイデガーは、時間の本質を「時熟」とよんだが、

じわじわとみずからに酸が侵食するように伝わってくる「もの」によってニンゲンは成長するのである。

 

 ある大学の教授にある学生が訊いたそうだ。

 

「先生、あの本お読みになられましたか」

 

「いや、わたしはまだ読んでいない」

 

「ベストセラーですよ、もう出版されて半年になるんですよ」

 

「では、君。君は、ダンテの『神曲』を読んだかね」

 

「いえ」

 

「あれは、出てから600年になるぞ」

 

 「時熟」とは時間のかかる作業なのである。

 

いまの時代、知識として与えられるべくものが

「情報」というフロー型に変形してながされてゆく

危険性はいつも身近に存在しているのである。

 

 キャス・サンスティーンの

『インターネットは民主主義の敵か』において、

つまり、われわれは見たいものしか見ず、聞きたいものしか訊かない。いわゆる「フィルタリング」がされ、じぶんだけのじぶんのニュース、「ディリー・ミー」が生まれると説いた。

 

 民主主義は、見たくないものも見、知りたくないもの理解し、

ひとと共有の感覚が、それを担保させているという。

 

 インターネットは、フィルタリングされたディリー・ミーだけを

増殖させているアーキテクチャーとなれば、

この世の中のシステム破壊にもつながりかねないのである。

 

 すでに、われわれは、パソコンやスマートフォン、

SNSといったアーキテクチャーに依存している、

あるいは、生かされている、といっても過言ではない。

 

 デマがSNSで流されても、無自覚にそれを信じ込み、

「拡散希望」のメンバーに心地よく参加したりする。

 

 これは、わたしたち一人ひとりのリテラシーの

問題であって、どの情報をどれだけ信じ、

そして、依存ではなく自立した生き方をしなければ、

いまの世の中に、ただ流されてゆく

「じぶん」本来のものを見失った存在として

生きてゆくことになりかねないのではないだろうか。

 

 依存ではなく自立であると説いたのはニーチェであるが、

ニーチェの言うところの「超人」にまでなることは

ないだろうけれども、しっかりとしたリテラシーと、

道徳規範を取り戻し、なにが正しいのかという

根本にもどりつつ、SNSを上手に使いこなすことが

だいじなのではないだろうか。

 

 心の師とはなるとも心を師とすべからず、とは

仏教の言葉であるが、その「心」が劣化しないように心がけ、

みずからしっかりと地面に着地した人生を

歩むことが肝要なのだろう。

 

 

 すくなくとも、食事中は携帯電話をもちながら

箸を持つのをやめたまえ。きみ。

 

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