グローバル化について ふたたび

2018/08/20
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生徒さんの要望でグローバル化についての小論文を

書いてくれと頼まれ、しかたなかく。

字数の制限もありまして。

 

 世界の国際化の文脈のなか、ヒトや情報、

モノ・金などがボーダレスになってゆく時代、

地球規模で俯瞰してみてゆくことが余儀なくされてきた、

いわゆるグローバル化は、

それを可能にする情報・通信・交通の技術もともなって、

われわれのまわりで日常化されている。

マクロコスモスで、

それをみれば「グローバル・ガバナンス」であり、

ミクロコスモス的な見方ならば、

マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、

スターバックス、

などの街を降りればどこでも見られるロケーションである。

 

 グローバル・ガバナンスとして眺めれば、

国内が飽和・成熟して利潤率がさがることにより、

国外に工場を移転したり、

賃金の安い労働力を外国人にもとめたりしながら

グローバル化が推し進められてきたのだが、

それによって、国内の中間層が分解して、

先進国を支える民主制は危機におちいることになった。

それゆえ、国内を閉じようとする動きもあるのだが、

それによって、ますます利潤率がおちることは

自明のことであり、グローバル化の潮流は

止められないけれども、

それによる危機的状況も同時に

うけとめなければならないという

パラドクスな関係を世界はつねにはらんでいる。

 

 

 たとえば、欧州における法人税

ひとつをとってみても、

隣国がすこしでも廉価な法人税を提案すれば、

財や工場をそちらに移転するが、

それをみた自国が、

それより安い法人税に減税してゆくうち、

ついに40年も経てば、

法人税は半分以下になってしまったという現実をおもえば、

この悪循環を食い止めるには、

各国の合意が必要であり、

合意、つまり政治的相互作用というのは

主権の譲渡か放棄にほかならず、

一国の独立性とは反措定の立ち位置ということになる。

 

 また、グローバル・ガバナンスにおいて、

国家の先導が優位なのか、

あるいは、市場が優先するのかも先見的に不明な点があり、

国が、国の主権のもと、

徴税権をもって、人為的に制度によって社会変革をおこし

再配分することがよいのか、

あるいは、市場の投資家など、

いわゆるリバタリアンによる技術革新などの

イノベーションによってのウェルフェアが有効なのか、

これが未知数なのである。 

 

 ミクロコスモス、卑近な例としていえば、

を降りれば、そこには、

「どこにもあるロケーション」であり、

だれでも知悉している店がずらりと並ぶ。

マックにケンタにスタバである。

 

わたしたちは、その品質を知るゆえに、

安心してどの店にも気軽に入り注文ができる。

町並みは造形的に美しくなり、

地方に行ってもソフィスケーティックな印象である。

ただし、その街の個性はしだいに失われてゆく。

いわゆる「文化の多様性の擁護」という問題である。

 

あるいは「保護主義」といってもよい。

 

ようするに、その街にしかないとんかつ屋さんや、

八百屋さんや、本屋さん、が危機に瀕するのである。

とんかつなら、ファミリーレストランですむし。

八百屋さんも大手スーパーに行けばよい。

本はアマゾンで買えば翌日には手にとどく。

こういう、便利でなんでもすむ世の中において、

グローバル化は街やひとの個性を減殺していくのである。

 

 これからは、保護主義とグローバル化という

二項対立的な発想を止揚して、

あらたなあたらしい街や生活を、

国も個人もかんがえていかねばならない

時代になることがのぞましいのではないかと、

わたしはおもう。