学校がつまらない

2018/08/20
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 学校がつまらない、という生徒がいる。

 

授業がつまらない、というのではない、

学校がつまらないのである。

 

 授業がつまらないというのは、

教師にその責任のほとんどがある

といっても過言ではない。

 

 

 教師は、「教科書を」教えていればいいからである。

ここに問題がある。

 

「教科書を」教えるということは、けっきょく、

その学習した箇所を生徒に暗記させ、

すべての生徒の完全なる理解を望みながらも、

定期考査では、平均点を六割くらいに設定する試験をつくり、

評点平均値を、5段階の3.2くらいにおさめておけば、

「よい教師」という肩書きを与えられるという筋道を

再生産させることにほかならない。

 

 だから、生徒は、その答えかたになる筋道と

到達した答えを覚え、答案用紙に書き、

そして、翌日は忘れる、という日々を送る。

 

 これでは、授業がおもしろくない、といわれても、

いたしかたないことであるし、

これを繰り返せば、「ばか」しか育たない。

 

 

 予備校の講師は、学校の教師より兵隊さんの位はひくい。

身分、門地の差別の禁止は

憲法14条に定めるところではあるが、

そんなものおかまいなく、

教師職よりはるかに身分はひくいとおもう。

 教員はまちがいなく、

予備校講師の階級を低位置に据えているにちがいない。

身分差はあるものだ。

 

 

 しかし、予備校の講師は、「教科書を」教えるのではなく、

「教科書で」教えている。

 ここがおおきな相違点がある。

 

 

「教科書で」教えるということは、

入試問題を解き、解説しながら、その答えがなんであるか、

ということはほとんど問題にせず、

そうではなく、どう解き、どう解答を導くのかという

そのテキストを通しての読解のプロセスに重点を置くのである。

 

 

 これが、「教科書で」教えるという立ち位置である。

 

 つまり、どう読むのか、という読み方を教える

生産的行為だとおもう。

 

 そうい仕方を教えれば、おのず受講者は、

べつの問題を解いていても、なんとなく解けてくるものなのであり、

予備校講師の存在理由はまさにその点に集約できる。

 

 しかし、そんなこと、学校の教師はほとんどかんがえていない。

 

 ただ、じっさい、問題が解ける、解けないは、

科目の主たる目的ではないのだから、

そこばかりに特化してしまえば、

学校の先生に軍配が上がることはないはずだから、

気の毒であることはたしかである。

 

 学校の教師には、教科以外にもせねばならないことが

山ほどある。それはじゅうじゅう理解しているつもりである。

ただし、教科にたいして、不勉強なひとが

多々いることだけは指摘しておきたい。

 

 わたしも教師を30年以上経験したが、

その30年の間、諸先輩方から学んだことは、ゼロ、皆無だった。

 

 なにひとつ、結果的にわたしに

教えてくれるひとはいなかった。

これは偶然なのか、

わたしに聞く耳がなかったのか、

あるいは、先輩方が無能だったのか、、

のいずれだとおもうが、いまとなってはわからずじまいである。

 

 

 ところで、学校がつまらない、というのは、

この話とはわけが違う。

 

 

 学校という空間がつまらないのである。

これは、学校という場のひとつの評価であり、

学校への「さばき」にも見える。

 

が、はたしてそうなのだろうか。

 

 

 「マタイ伝第七章二」のくだりに

「あなたがさばくそのさばきで、

自分もさばかれ、あなたが量るそのはかりで、

自分も量り与えられるであろう」とある。

 

 

 マタイ伝がすべて妥当するかどうかは、

宗教学者でないのでわからないし、

わたしは信者でもないのだが、

言語的には「さばく」は「判断」である。

 

 他者を判断すると、それは、じぶんも同時に

じぶんでじぶんを判断しているという事情を

すくなくともマタイ伝は伝えているのである。

 

 つまり、京都大学の吉岡洋氏の言うところの

「他者を見る眼には、自分とは何者かという

ことが含まれている」(<思想>の現在形』)

ということになるのだ。氏はつづけて語る。

「判断から『自己』という要因を消去することは

不可能なのである」と。

 

 ようするに、他を判断するという行為は、

それがそのままみずからの指標となっている

ということにほかならない。

 

 だから、「学校がつまらない」というひとは、

けっきょくのところ「じぶんはつまらない人間だ」と

宣言しているということなのだ。

 

 だって、どんなにつまらないとおもえる空間でも、

そこから、愉しみを見つけ出す能力があっても

いいではないか。

 

 チェスタートンが「絵画の本質は額縁にあり」

と言ったのは、限られたエリア、

つまり決められてしまった額縁の中からでも、

そこから芸術的創造はできるということを

語っているわけだ。

 

 チェスタートンの言説を敷衍すれば、

つまらないとおもえる学校という額縁からも、

創造的愉悦をさがすことができるのではないか、

と、そういうことになる。

 

 そういう探し物を見つける才能を

「セレンディピティ」と言うが、

その能力の欠如が「学校はつまらない」という言い草に

つながるのではないだろうか。

 

 

 だから、「人生つまらないね」と言っているヒト、

それは、あなた自身がつまらないヒトなのかもしれないのだ。