若者のエクリチュール

2018/08/20
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若者言語は方言である。

 

方言とは、他者排斥の機能をそなえていて、

つまり、よそ者を容易に識別する装置として

発達したものである。

 

だから、東北地方の方言たるや、

なにを言っているのか。われわれを受け容れない

言語の壁がそこにはある。

 

わたしがまだ学生だったころ、

友人たちとドライブで東北まで

出かけたことがあったが、

そこのビジネスホテルのフロントマンに

「このへんで、風光明媚なところありますか」

と訪ねたところ、「アリマス」と、

黒い蝶ネクタイの男は、

すこし鼻にかかった東北弁で答えてきた。

 「どこですか」

「ハイ、ゲイビケイです」

「はい、ゲービケイですか」

「ちげぇます、ゲイビケイです」

 わたしは、ゲイビケイの発音を、「ビケイ」のところを

上にあげて、「ハラジュク」「シンジュク」とおんなじような

音階で訪ねたのだ。そうしたら、ちがうという。

 

「だから、ゲイビケイですか」

「ちげぇます、ゲイビケイです」

 

フロントの男のひとのひとことずつの発音が

すべて鼻濁音のように響き、

「ゲイビケイ」が「ゲイ」のところに力をこめて

「ビケイ」の音程がさがり、

ちょうど、英語の「allwys」の発音とよく似た

「ゲイビケイ」だったので、

わたしは「ゲイビケイ」がはたして

遊園地の乗り物なのか、あるいは、どこかの山なのか、

なんかの道具なのか、とにかく、なんなのかさっぱり見当がつかなかった。

ま、しかし、風光明媚と訊いているので、どこかの場所だろう。

 

「ですから、ゲイビケイですね」

「チゲェマス、ゲイビケイデス」

 

埒が明かない。

 

しかたなく、

わたしの発音がソフィスティケートな言い回しで、

かれの発音が訛りになまった東北弁であると

了解して、じぶんの中で着地した。

 

「わかりました。じゃ、そのゲイビケイ、

どこにあるんですか、教えてください」

 と、今度は、すこし恥ずかしかったが、

かれとおんなじ発音でゲイビケイの場所を訊いた。

 

「はい、ここです」

こんどはちゃんと反応してくれた。

そして、わたしたちは地図をもらってホテルを出、

なぞの「ゲイビケイ」をめざした。

 

が、どうもよくわからない。

しばらく運転していたら、中尊寺の門前にたどり着いたので、

わたしは、もぎりのおばさんにたずねることにした。

 

このとき、わたしは、わたしの掌が

ものすごい汗をためていることを意識した。

 

 もちろん、ホテルマンとおんなじ発音で

尋ねたのだ。

 

「すみません。ゲイビケイどこですか」

 

 ようやく、わたしどもは、なぞのゲイビケイに

たどり着くことができた。

そこは、夏とはいえ納涼には最適の渓谷であった。

 そして、そこはゲイビケイではなく、

厳美渓だったのだ。

 

 ホテルマンは「ゲイビケイ」ではなく

ずっと「ゲンビケイ」と発音していたのだろう。

 

 だから「チゲェマス」と言うわな。

 

方言とは他者排斥であるから、

わたしたちが、東北で暮らすことはまず不可能であろう。

 

 吉川君という一年年上の同級生と

大学時代、日本三景の松島を旅行したことがあったが、

駅の売店で、東北美人の店員さんに

「ティッシュください」と吉川が言ったら、

まだ、売店でティッシュなど販売していない

時代だったようだ。

 ティッシュありませんと、彼女は

言おうしたのだろうが、それが

ものすごく訛っていたのだ。

 

「フヅーノツルガムスカヌッス」

 

と、わたしには聞こえたのだが、

もちろん、彼女は「普通のちり紙しかないです」

と言ったのだ。

彼女の手渡したものは「水仙」と書いた、

二つ折りの硬い紙であった。

 

そういえば、北海道で暮らす

野口君の家に電話したときも、

奥方が電話口に出てこられて

開口一番こう言われた。

 

「ウツノスズンガオ世話ニナッテムス」

 

わたしにはこう聞こえたのだ。

かれの奥さんはかれの教え子である。これはどうでもいいことであるが、

なんかちょっと頭にくるわな。

 

 よそ者を受け容れないという空気は、

言語の発達にともなって方言を生産させてゆくのだが、

若者には、若者なりの言い方というものがある。

 

「ワンチャン」とか「めっちゃ」と「やばい」とか

「まじ」とかである。

 

 日常必要な語彙数は、

英語は1500語、フランス語は4000語、

そんななかにあって、日本語は、27000語以上が

必要とされているらしい。

 

 27000語あるいは30000語とも言われている

語彙数をはたして現代人は持ち合わせているのだろうか。

 

 

 しかし、「ワンチャン」とか「めっちゃ」とか使っていると、

すでに、十数語、あるいは百語くらいは放棄しても

日常的に不便ないのかもしれない。

 

 よく言えば、若者言語は汎用性がある、

ということであるが、それによって、

個別性は減殺される。むしろ、若者にとって、

個性的な表現は

必要視されていないのかもしれない。

 

 

 それよりも、みんなの使っている

めっちゃ便利な、なんでもあり~みたいな

そんな言葉を使えるわたしって、ちょっと素敵じゃない、

みたいな気持ちがどこかにあるのかもしれない。

 

 すこしむつかしくいうと、

同世代の他者と共有する汎用性のある言語を

使えることへの意識、情状性

有能感をかもしているということである。

 

みんなといっしょのフィールド、アゴラに

いられる気持ちよさである。

 

個性とかオンリーワンとか言われている時代に

けっきょく、ひとは大衆にうずもれてゆく

そんな方向に人生をシフトしているのかもしれない。

 

出る杭は打たれる。

 

みんなといっしょで、それで満足。

それは、マクシミンな生き方じゃないか。

 

けっきょく、若者言語を採用した若者は、

それが若者言語のエクリチュールとして

機能するわけだから、

人生とセットとなって、創造的な言語活動

ひいては、独創的な生活からは乖離し、

だれでも歩く人生をとぼとぼ生きてゆくのかもしれない。

 

 エクリチュールとは、選択的に採用した、

個人的な言い方で、その言い方によって、

じぶんの実生活までが左右されてしまうのだ。

つまり、「ごっつあんです」みたいな

お相撲さんのエクリチュールを使えば、そのひとは、

けっきょくお相撲さん的な人生となり、

服装も変わるし、どんぶり飯の量も増えるというものだ。

 女子高生に「おれ」って言わせてみれば、

人生変わりそうじゃないか。

ちなみに、これは、ロラン・バルトというひとの言説である。

 

 

しかし、だからといって、わたしが、

マクシマックス、火中の栗をひろう人生を

若者言語を放棄しながら、一か八かで歩みなさい、

ともうしあげているのでもない。

 

いま、若い人たちの言葉遣いを

その親世代が使い始めたら、

おそらく、若者は、それを拒絶するか、

嫌悪的な音声として受け止めるだろう。

 

 

「え、マジで」

なんて、きみの母親が言い出したら、

なんか、言い方ムカつくってことになりはしないだろうか。

 

 もし、そういう言語を、

世の大人たちが使い始めたら、おそらく、

そのときの若者は、その言葉をみずからの

言語圏から、掃き捨てることだろう。

子どもの世界に大人が土足ではいりこんできたのだから、

どうしても、それを排除しなくてはならない。

 

 オートバイが危険なら、

オートバイの安全運転講習をするのではなく、

オートバイ通学を禁止にするほうが

短絡的で、リスクもすくないのと類比的に、

大人の舌に乗った舌触りのする言語は、

それを修正するより、排斥したほうが

楽チンなのはとうぜんのことである。

 

 

 けっきょくそうやって、

若者言語は構造的に死語化してゆくのかもしれない。

 しかし、また、あらたな言語が生産され、

このループは、おわることなくつづけられるのだろう。

 

 そして、若者言語は、大人社会をどこかに

否定しつつ、みずからの世界に閉じこもり

弱体化してゆくのではないだろうか。

 

 こういう社会、やばくない?