始めに言葉ありき

2018/10/01
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 始めに言葉ありき。

 ことばほど、にんげんに大切なものはない。
ことばがひとを作ると語ったのは、フィヒテである。

 思考が現実化するためには、
まず、思考したことをことばであらわし、
それが行動をうながすのだから、
ことばがもっとも基幹的な道具である。


 言霊ともいう。
「話す」は「放す」と同義である。
「言葉を話す」ということは、
「言霊」を「放す」のだから、
ひとにものを語るとき
「手」を使って放す、あるいは、話すことが
教育界の基本だ。

 それに無知、あるいは無理解な教師は、
両手をしっかり教壇に乗せてしゃべる。
いわゆる素人教師の生産である。

 しかし、言語学者にいわせれば、
そのことば自体が、あいまいで正確さにかける、
というのだ。


 ソシュールというひとは、
単体のことばだけでは、
その語は自立しないと述べた。つまり、語は完璧ではないということだ。


 「女性」という語を定義するときに、
かならず対になる語を用意しなくてはならないと。

「女性」一語だけでは、「女性」を説明できない。

つまり、「女性」という語は「男性」という語が
存在してはじめてその性格をあらわにするのである。
「美人」も「ブス」がいてはじめて「美人」が
存在する。「平和」も「戦争」があるから
「平和」という語がある。

 どの国も戦争をしなければ「平和」なんて語は
必要ないだろう。

 ようするに「語」というものは、
その「関係性」によって、はじめて成立するものだと、
ソシュール先生はそう語ったのだ。

 だから、ソクラテスもプラトンも
アリストテレスも、キルケゴールやサルトルや
ニーチェでさえ、その不完全なる言語で、
哲学を語ったのだから、そこから
うまれる真理でさえ、不完全だとかれは
言ってのけた。

 と、わたしはそんな大上段な物言いを
言わんとするものではない。

 いまの若者たちは、
個別に「記念日」をつくっているようだが、
それが気になって仕方ない。

「かれとつきあって、今日が記念日なの」とか
うれしそうに語っている子がいるが、
建国記念日、むかしの紀元節、とか、
時の記念日とか、つまりは、国がさだめた
記念日だけでいいんじゃないか、と、
そういうことである。

「ハレ」と「ケ」という語があるが、
「ハレ」とは公共性、「ケ」とは私性である。
記念日というものは、ハレにカテゴライズされるもので、
じぶんかってに、つまり「ケ」の領域で
記念日とかつくらなくてもいいんじゃなぃかと、
わたしはおもうのだ。

 それが、「きょうが、かれと会って三か月目の記念日」
なんて、数か月で記念日をこしらえる。

 これは、ことばの関係性という
観点からもうしあげれば、
「かれとの記念日」には、その語だけで
自立するのでなく、対になる語を必要とする。

 ようするに、この「記念日」の裏側には「離別」が
存在しているのではないか、ということである。

 つまり、そんなに長続きしないという前段が
「記念日」ということばを
彼女、彼らに流行らせたとわたしはおもっている。

 そして、長続きしないという前段があることに
無自覚なのか、認知的斉合理論がはたらいたか、
彼女、彼らはそれを意識していない。
あるいは、しないようにしている。

 だって、何十年とつづくカップルだったら、
ちょくちょく「記念日ね」なんて
言わないとおもうのだ。

 熱しやすくて醒めやすい、なんていう
ことばは死語のようでもあるが、
あんがい、いまの若者は、そんなタイプが多いのかもしれない。

 ところで、
わたしは、妻に、わたしどもの入籍した日を
おしえていない。入籍してかれこれ35年近くになるが、
だから、わたしども夫婦が、結婚記念日を祝ったことは、
まだ、いちどもない。

 記念日など、国に任せておけばいいのである。