砂場にて

2018/10/24
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 あんまり子育てのことについて

語るのはお門違いであることはじゅうじゅう

承知しているが、わたしは娘たちに「門限」を

 

作らなかった。

 

 

 

 

「門限」などなくても、家庭がそこそこよければ、

這ってでも帰ってくる、というのが持論である。

 

 

 

 

 じっさい、娘たちは無難にそだち伴侶を得、

そして子をもうけた。

 

 

 

 

 わたしにとっては孫である。

 

 

 

 

 世の中は、三つの交換でできている。

 

それは、貨幣の交換と記号の交換と女の交換である。

貨幣が移動すれば経済がなりたち、

記号が移動すればコミュニケーションが可能となり、

女が移動すれば、あらたな家庭がうまれる。

レヴィストロースというひとが言ったことだ。 

 

 

 

 

 

 

 息子はずっと家にいるだろうけれど、

娘は、女の交換、しょせん嫁いで、

名をかえ、その家にはいるから、

そちらの家で失礼のないように、箸のもちかたや、

みかんの剥き方や、鮨の食べ方などを、

わたしは徹底的に教え込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 勉強などどうでもいい。

 

必要なことは、日常の身のこなし方であると

そうおもっているからである。

 

 

 

 

 こういうのを「身体化された文化資本」とよぶ。

だから、長女が、中野の寿司屋さんで、

「お嬢さんわかってるね」と言われたそうだが、

このとき、わたしはひっそりと誇らしげにおもったものだ。

 

 

 

 

 みかんの剥き方を、次女の亭主におしえたら、

「あ、それナナコの剥き方だ」と言っていたが、

それは「ナナコの剥き方」ではなく、

小笠原流の剥き方なのである。

 

 

 

 

 つまり、わたしは子どもたちに

みかんの剥き方は小笠原流を教え込んだのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 世の中に出たときにははずかしくないように

それが親の子への教えである。

 

 

 

 

 

 

 娘たちは、よく実家にかえってくる。

わたしが、「ここはお前らの家ではないので、

はやく帰りなさい」と言っても、

へらへらしているだけで、

長いときは一週間以上も滞在する。

 

 

 

 

 次女の子どもはふたりとも女の子で、

 

上の子はまだ二歳である。

 

 

 

 

 片言であるが、しっかりと歩くし

公園が好きなようだ。

 

 

 

 

 このあいだ近くの公園の砂場で遊ばしていたら、

常連さんの幼稚園生たちも砂場にきた。

 いまの砂場は猫がはいらないように

金網に囲まれている。その中で子どもたちは遊ぶのだ。

 

そして、見ている親たちは、

その姿を公園の外から見守るのである。

 

 

さながら金網デスマッチのようにもおもえるが、

次女の子はまだちいさいから、次女がつきっきりである。

 

 

 と、幼稚園のお姉ちゃんが二歳の孫のそばの

バケツを貸してくれと言う。

 

 

 

 

 砂場には多くのバケツなどの遊戯が

置いてあるそうなのだ。

 

 

 しかし、すでに幼稚園のお姉ちゃんはバケツを

使っているのだが、もっとほしがるわけである。

 

 

 

 

「コハルはふたつあるからひとつ貸してあげてね」

と、次女がいうと、

「ふたつあるから、ひとつはいいだろう」というような

数的な因果関係が二歳にわかるわけなく、

いやいやをする。

 

 

 

 

 どんな歳の子でも所有欲はあるものだ。

 

「ね、貸してあげて」とそれを幼稚園生に渡したところ、

わたしの孫は、大泣きをして、砂をけちらし、

たいへんなことになったらしい。

 

 これは、次女から聞いた話。

 

 

幼稚園生はその場に六、七人いたそうだ。

ということは、観戦している母親も六、七人いるはずだ。

が、二歳の子が半狂乱の大泣きにもかかわらず、

また、その原因が幼稚園生にあるのにもかかわらず、

われ関せず、まったく無視して、母親同士でしゃべっている。

 

 

「子ども同士のことだからしかたないかな」

など、娘が言うから、

 

「それ、見ないふりしているだけだろ」

と、わたしが言った。

 

「そうだよね」

 

「見たくないものは見ない、というのを

認知的斉合性というけど、それが働いたな。

もともと、みんな仲良くなんて、無理なんだよ。

国同志だって無理なんだから、

つまり普遍主義というものはないってことだね」

と、わたしが語り出したのだが、とうぜんながら

娘はとちゅうから聞いていなかった。

 

 

 

 リベラル・コミュニタリアン論争というのが、

1993年ごろに繰り広げられた。

 

 

 リベラリズム、いわゆる普遍主義、みんな仲良くという

考量は、ひとつの価値観で統一しないと達成できない。

なら、その価値観とはなにか、それは「正義」である。

「正義」なら世界共通だろう、

とジョン・ロールズというひとが

語り出したのだが、「ふーん、みんなってだれさ」と

マッキンタイアとかサンデルというひとが言い、

細かい論証をへて、けっきょく、

なんだ「正義」の理解できる範囲は、

国家内だけじゃん、ということになってしまった。

 

つまり、リベラリズムというのは、

コミュニタリズムの一亜流にすぎないということに

決着してしまったのだが、

普遍主義は、こんなささやな四畳半にも満たない

子どもの遊ぶ空間でさえ

成り立たないということなのであった。

 

 

 

 

 娘もそういうことを

じぶんの子どもとともに、砂場で経験しながら

実家にちょくちょくもどってくるのである。