国の綻び

2018/12/16
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法社会学上、刑罰には三つの効果があるとされている。

 

そのひとつは「抑止効果」。

それすると、おんなじように罰せられますよ、

とアナウンスしておいて、

犯罪を事前にくいとめるためのものだ。

が、「抑止効果」は、国連の司法統計でも、

あまり有効ではないらしい。

効果が認められるのは、軽犯罪と性犯罪くらいらしい。

 

 

ふたつめは、「感情回復」。

被害者や被害者家族の気が澄むようにとの配慮である。

いわゆるカタルシスということだ。

が、しかし、被害者遺族の極刑を望む気持ちが

強いため、とかいって無期懲役が死刑に

繰り上げられたら、犯罪者もたまったものではない。

なら、身寄りのないひとを殺ればよかった、

みたいな図式を成り立つ。

とくに、被害者家族の感情回復には、

光市母子殺人事件で、本村というひとが

社会に訴えかけ、それに応じた政権、

当時は小泉首相だったが、

それによって、ずいぶん新法が

すんなりと成立したという歴史をわが国はもっている。

 被害者家族が、法廷に入って遺影を持ったり、

証言台で、その哀しみ、苦しみを訴えたりすることも

できるようになった。

 

 

そして、最後が「社会的意志の貫徹」。

 

この国では、こうするとこんな罪になっちゃいますよ、

っていうことを宣言する。

中国など、麻薬取引しただけで、死刑ときまっている。

 

 と、立憲主義にもとづく憲法には、

このような含意がある。

 憲法には、だれにとっても他者であり、

独裁から国を守り、歴史の失敗をくりかえすことなく、

あるいは、また、それが、外交宣言、

つまり、わが国は、人権を守り、平和的な国です、

ということを世界に喧伝するはたらきもあり、

憲法こそが国の中枢である。

 

 

 が、この憲法がゆがめられている事案が

ちらほらみられるようになった。

 

 たとえば、違憲状態の国会議員が国会発議をする。

それも自衛隊における緊急事態条項についての

憲法を改正発議するということは、憲法の想定外である。

 

 また、自民党は、

 憲法改憲草案で、一票の格差について

違憲状態を、違憲でなくする条文の改正をもくろんでいる。

 

 違憲状態とは、一票の格差が歴然であり、

違憲なのだが、短兵急に改善しなくてもいいが、

いずれ、改善するようにというお達しのことである。

 

 自衛隊が違憲であると、最高裁はいちどたりとも

語っておらず、むしろ、国会議員の違憲判決は、

過去7回ほど出されている。

 

 

 これを社会的矛盾といってすましてしまうわけには

ゆかないだろう。

 

 

 

たとえば、死刑になりたいから、ひとを殺した。

という事件があとをたたない。

 死刑制度をしっかり実施している国は、

30か国におよばない。

 

 ただ、死刑制度を残留している国家の人口が

多いので、けっきょく世界人口の約半数が、

死刑制度のなかで暮らしていることは事実なのだが、

死刑という極刑は、

「抑止効果」の最たる刑罰なのだが、

その制度があるために、殺人を犯す人物があらわれる、

ということを、おそらく憲法は想定していなかったはずだ。

これも、社会的矛盾である。

 

 また、さいきん判決が話題になった、危険運転致死罪である。

 

 夜中、あるバカが、あおり運転ののち、

高速道路の追い越し車線に相手の車を止めさせて、

その車にトラックが激突し、若い夫婦が即死した事件である。

 

 判決は、運転していない状態なのに、

危険運転致死が適用されるかどうかであった。

 

 

 つまり、危険運転致死罪の範囲内かどうかが

争われたのである。

 

 けっきょく、求刑23年のところ、

横浜地裁の判決は懲役18年だったが、

これも憲法の想定外のことであった。

 

 そんなバカが世の中にいるとは

おもいもよらないことだったのである。

 

 

 これらの憲法の想定外の事情は、社会的従属矛盾である。

従属矛盾であるからには、それの主要矛盾を

かんがえなくてはならない。

これを「矛盾論」といい、毛沢東の言説である。

 

つまり、主要矛盾にたどりつけば、

こういったアノミーな社会が一掃されるかもしれない

ということである。

 

 

 その主要矛盾の手がかりは、

わたしは「システムの綻び」にあるとおもう。

 

 

 民主主義、あるいは資本主義のシステムが

崩壊してきている、その予兆なのだとおもうのだ。

 

 つまり、世の中が終わりかけている、といってもいい。

困ったな。

 

 

 もし、それが主要矛盾であったら、

それを修正する、おおきなプロジェクトを

かんがえてもらわなくてはならないのだが、

いまのわたしたちの政権では、とうてい無理な気がする。

 

 いまの政権は、この国の崩壊をすでに

予見、いや実感していて、そのシュミレーションも

出来上がっているのかもしれない。

 

 なぜなら、あれほど、めちゃくちゃな

国会答弁でも平気の平左、ごはん論法、

なんともおもっていないような答弁ではないか。

 

 これは、開き直りの現れなのではないかと、

勘ぐっている。

 

 

 

 世の中が終わりかけている、

それがもっとも個人レベルで体現していることとは、

マスクとリップクリームである。

 

 そもそも、にんげんは、ネオテニィ、

いわゆる幼形成熟であり、完全なる肉体ではないまま、

成人してしまう生き物である。

 だから、それを補完すべく、制度や文化があると

そう説いたのは、アルノルト・ゲーレンだが、

どんなに、ネオテニィであっても

まさか、外に出るときに、マスクやリップを

しなければ、歩きにくくなるまで、

にんげんが、劣化、あるいは弱体化しているとは、

さすがにゲーレン先生も想像してなかったろう。

 

 

 ようするに、冬にリップクリームを塗らなければ、

やってゆけない、あるいは、マスクが必要だ、

ということが日常化しているということは、

すでに、この世に、ナチュラルには生きていけない

ということの左証なのである。

 

「心配ないからね」なんて

唄っていた呑気な時代はもう来ないのではないだろうか。