サん・テグジュペリの言葉から

2018/12/18
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 サン・テグジュペリは
「愛とはお互い見つめあうことではなく、
共に同じ方向を見つめることである」と言った。

うらやましいかぎりである。...
「愛とは」で語れることが、である。

 

 

再三もうしあげていることだが
「愛」は日本語ではなく、中国語である。

我 愛 你.

これで「あなたを愛しています」となる。

 

 

6世紀ころ、日本に漢字が輸入され、
それより、文字をもつ文化が栄えたわけで、
それまでは、文字はなく、ただ話し言葉、
いわゆる「大和言葉」だけが、
コミュニケーションツールであった。

 

 ようやく、文字をおとなり中国から
いただいて、その漢字と、大和言葉を
適合させて
たとえば「美(メイ)」はどうも、
日本語の「うつくしい」に相当するから、
「美しい」としよう、なんて具合に
「訓読み」がうまれたのだが、
そのとき、「愛」には、その当時、
それ相応の大和言葉が
見つからなかったため中国の発音のまんま、
わが国の文字としたのだ。

 

 

 訓読みのない字は、「愛」のほかには、
「番」や「絵」などがある。

 

 訓読みがないということは、
そういう概念が存在していなかったという
左証である。だから、わたしたちの文化には、そもそも「愛」「番」「絵」は存在しなかったといえる。

 

 

「恋」とか「好き」とか、

それは大和言葉にあったから、

好きなだけ恋したり
「好き」と叫んだりすればよいのだが、
「愛している」は、どうも
ピンとこないというひとがいたら、
それは、ものすごく正常な感覚と言ってよい。

 

ようするに、オプションとして、操作概念として輸入したものだからである。

 

 

 操作概念とは、そういう言葉があったほうが便利だよねって、
それゆえつけられる名前のことをいう。

 

DNAとかエイズとか、すべて操作概念である。

 

 概念は民間に流布しやすいからひどく
有意味なのだ。

 

「愛」という操作概念は、けっきょく
それを、心や脳にインプットして、そんなものがあるらしい、

とおもいこんでいるにすぎない。

 

 

が、欧米言語や中国語には、ラブとか「愛」とか、ひどく楽観的な感情語があって

うらやましいではないか。

だから、光源氏が紫の上に

「愛している」なんて
いちども言わなかったし、

一条天皇が、中宮定子に

「ぼくのこと愛している?」なんて
訊いたことはなかったはずだ。

 

 キリスト教の根本は

「受け容れる」ことである。

 


個人がどんな「顔」のときにも、
たとえば、激怒しているとき、

あるいは、至福のとき、
どんなときにでも「受け容れる」、

これがキリスト教の根本である。

 


その「受け容れ」をたった一語に打ち込めたのが「愛する」なのだ。

 

 

「隣人を愛しなさい」など。

 

 が、プリミティブに「愛する」を理解していない邦人にとって、

「愛しなさい」と宣教師さんに言われても、
じつはどうしていいかわからなかったのではないか。

 

 仰向けにひっくり返されてしまった
文鳥のように、身動きひとつできなくなって
しまったのだとおもう。

 

 

 フィリピン人の9割ちかくが
キリスト教信者だと聞く。

 

 だから、フィリピンには「愛する」と
同義の本国の言語があったのではないかと
わたしはおもっている。

 

 韓国でも25パーセントがキリスト教信者だが、こと、日本は1パーセントに過ぎない。

「愛する」を、根源的にしらないからである。

 
 

 このあいだ、店でお客さんから
「マスター、顔になんかついてるよ」って
指摘された。

 

「は」
と言いながら、わたしは、じぶんの顔をまさぐる。

 

「うん、取れた。取れた」

 なにがついていたか、わからない。

 ネギか海苔か、はたまた小麦粉か。

 

 しかし、わたしの横では、
妻が皿洗いをしていたのだ。

 

「おい、顔になんかついていたんだから、
教えてくれてもいいじゃないか」
と、わたしが言ったら、妻は言下にこう答えた。

「あなたの顔なんか見てないわよ」

「・・・」

 

 しかし、わたしは、ここでサン・テグジュペリの名言をおもいだしたのだ。

 

「愛とはお互い見つめあうことではなく、
共に同じ方向を見つめることである」

 

 なるほど、ふたりは見つめることはないのだ。
おなじ方向を向いているのだ。
だから、わたしの顔を見ることはないはずだ、と。

 

 が、しかし、わたしたち夫婦には
サン・テグジュペリの言うような「愛」はない。

 

しょせん、所与していない感覚だからである。