ヒロちゃん

2018/12/21
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今から50年ちかく前、

わたしがまだ中学生だったころの話である。

父の転勤で、小田原の片すみ、大井松田という町に

わたしたちは引っ越した。

 

 当時、大企業が都会をはなれ、

地方に本社を移転する風潮だった。

父の会社も、御多分に漏れず、

その風潮通り、この町の丘陵地をすっかり買い取り、

本社と独身寮と家族のすむ社宅をつくったのだ。

 

 相互台という。

 

 相互台は、酒匂川からのぞめば、

古墳のようであり、この台地から見下ろせば、

御殿場線に

まだ、蒸気機関車がはしっていた。

そんな時代である。

 

 社宅は、すべて平屋であり、豆腐のようなカタチで、

ひとは「マッチ箱」と呼んでいた。

 

 二軒となりが、ハラダ君のうちで、

父とハラダさんは懇意にしていたものだから、

よく、家族ぐるみで出かけたりしたものだった。

 

 ハラダ家には、健ちゃんという、

わたしと同い年の少年と、

ヒロちゃんという小学校一年生のボクがいた。

 

 健ちゃんは、東京の学校に進学するというので、

長い休みのときだけ、わたしとよく遊んだ。

 

 この台地の中を自転車で走り回ったり、

斜面の芝生をすべり台にしたり、

桑の実を口にふくんだり、

相互台は、少年たちだけの

自然の遊び場だった。

(じっさい、ほかの子と出会ったことはなかった)

 

 

 

 ヒロちゃんは、ひどく物静かで、

すこし茶色掛かった細い髪は、

風にゆられてやわらかくゆれていた。

 

 中学2年生になったときである。

 

ある日、

きゅうにヒロちゃんがわたしのところに来て、

「お兄ちゃん、自転車に乗せて」

とせがんだのだ。

 

 わたしはすこし吃驚した。

ヒロちゃんと、ひょっとすると会話したのは

これがはじめてかもしれなかったからだ。

 

 それほど、かれはおとなしく、

いつもヒロちゃんはひとりぼっちだったのである。

 

 

 わたしは、ヒロちゃんを乗せて

健ちゃんと走ったこの台地を

のぼったり、降りたり、

何周もまわって一時をすごした。

 

 

 

 そして、翌日、ヒロちゃんは死んだ。

 

 

 その日の夕方、あたりが昏くなるころ、

マッチ箱の住人たちが、右往左往、動き回っている。

 

 中学生のわたしにも、

なにか、のっぴきならないことが起こったことは

察することができた。

 

母にたずねると、ヒロちゃんが帰ってこないというのだ。

 

それで、相互台の大人たちが、帰ってこないヒロちゃんを

探し回っていたのである。

 

 しばらくしてヒロちゃんは見つかった。

 

丘陵地の中腹にある貯水槽に

ヒロちゃんは沈んでいたのだ。

 

どうも、ひとりで遊んでいるとき、

足を滑らせあやまってそこに

潜ってしまったらしい。

 

 

 ハラダのお父さんがそこから息子を引きずり出し、

すぐに、相互台にすんでいる内化医のひとが、

必死に蘇生措置をしたが、もう帰らぬひととなっていた。

 

 わたしの部屋の窓から、

倒れているヒロちゃんや、

マッチ箱のたくさんの住人が見てとれた。

 

お前は、行くなと母に制止されていたので、

そのあとどうなったかはよくわからない。

 

 それから、まもなく葬儀があった。

ハラダ家はキリスト教であったので、

わたしは、ヒロちゃんの遺影に花をそえ、

十字架を切った。

 

 

 たった7年間のあえない命であったが、

なぜ、死ぬ前の日に、わたしに自転車に

乗せてくれ、などと言ったのか、

いまでも不思議である。

 

 

 もしかすると、ヒロちゃんは、

すでにじぶんの運命を、無自覚にでも、

わかっていて、

わたしにねだったのではないか、

そんなことを、ふとおもうのである。

 

 ヒロちゃんが、亡くなって、

じつは、かれがどんな顔であったのか、

おもいだせないくらい、

影の薄い子だったから、

母とわたしは、

ハラダ家といっしょに撮った写真を

引っ張り出して、

ヒロちゃんを認めようとした。

 

 写真を整理すると、78枚出てきた。

 

 が、しかし、そのどの写真にも、

たしかにヒロちゃんはいるものの、

横を向いていたり、下を向いたり、

あるいは、

かれだけピンボケになっていたりと、

けっきょく、一枚もヒロちゃんが

しっかりと写っている

写真がなかったのである。

 

 

 夭逝する子はひょっとすると

写真には写らないのじゃないか、

そのとき、わたしはそうおもったのである。