マサエモン

2018/12/22
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 マサエモンが死んだ。

 

マサエモンは、正右衛門なのか、政右衛門なのかしらない。

 

 マサエモンの本名は、鈴木雅人という。

かれの家は、西船橋を開拓した地主で、

その屋号が「マサエモン」なのである。

 

 

 鈴木雅人は、次男で、長男の鈴木さんは、

正真正銘の14代「マサエモン」さんで、

おそらく、鈴木家を継承しているのだろうが、

わたしたちは、次男のかれを「マサエモン」と呼んでいたのだ。

 

 さすがに地主さんだけあって、このへんに

小学校がない、と12代マサエモンさんが言い、

じぶんの家のとなりに小学校を作ってしまった。

ものすごい広い校庭で、わたしが思い切り

軟球を投げても、敷地ないで球は落ちたくらいだ。

 

 執事のなんとかさんは、よく働いてくれた

というので、マサエモンさんの家のとなりを

その執事さんに譲ったのだが、

いまだにその土地は健在で、

山二つのぼったところに家があると

聞いている。

 

 

 

マサエモンは大学の同僚で、

おんなじゼミで二年間、寝食をともにした仲間である。

 

かれの訃報は、奥様の喪中はがきではじめて

知ったのである。

 

 かれと最後の会ったのが、

かれの結婚式だった。

わたしは、友人代表のスピーチを頼まれた。

 

 が、友人代表といっても、

式場に友人らしきは、

わたし一人だけだった。あとは、どっさり

親族だけで、わたしのテーブルの前、横は、

マサエモンの姪っ子や、甥っ子といった、

親族だけだったのである。

 

 それなら、友人代表はわたしだけじゃないか、

と、そのとき唖然としたおぼえがある。

 

 この結婚式も、なかなかユニークで、

マサエモンさんのお父さんが、体調をくずし、

けっきょく出席しておらず、すべては、マサエモンさんの

お兄さん、つまり、14代マサエモンさんが、すべてをしきり、最後のあいさつも14代がした。

 

 

 なにを言っていたのか、

すっかりわすれたが、

どうしたことか、新婦の父親、たしか北海度で

教員をされている方だと記憶しているが、

お父さんがマイクをもぎり取り、

「えー、この結婚には、わたしは反対で・・」と、言いだしたのだ。

 

 レアな話である。

 

 その後、どういうふうに雅人家があゆんでいったのか、ほとんど知らないままであった。

 

 

 喪中はがきには、奥様の名前と「まどか」という名前が書かれていたから、

おそらくお嬢さんなのだろう、

三人の家族だったのではないかと拝察する。

 

 

 友人代表にわたしだけが結婚式に出席した

だけあって、かれとは、京都旅行にも行ったことがあるし、

しょっちゅういっしょに遊びあるいた記憶がある。

 

 

 大学の付属からかれは進学した男で、

高校時代は、国旗に飛び乗って、

日の丸を破ったことがあったと聞いた。

 

 小学校時代、

塾に行くために自転車に乗って出かけたが、

道に張られた針金のようなものに額を当てて、そのまま後頭部からアスファルトに

叩きつけられ、

ふらふらで塾に着いたのだが、

その入り口で意識をうしない、

家に運ばれたそうだ。

 

 かれの母親が、医者をよび、

「瞳孔がひらいている、救急車をよびますか」

と、ドクターが言うのに、

「だめなものは、しかたない」と

母親は、マサエモンを放置した。

 

 かれは、瞳孔がひらいているので、

世の中がなんにも見えないのであるが、

しかし、音だけは、

そんな中でも聴こえたので、

となりの部屋で、母親は、野球中継を見ていたその音だけは聞こえていたそうだ。

 

 

 翌日、かれは目があいた。

 

だから、この気丈な母親とともに、

医者にゆき、脳波を検査したそうだ。

 

女医さんであったが、

「脳波が異常だ」と言われたそうだ。

 

「ね、国語の成績はいくつ?

 

2です」

 

「じゃ。算数は?

 

2です」

 

「理科は?

 

2です」

 

かれは、すべての成績が、

五段階の2だったのだ。

と、女医はこう言ったそうだ。

「じゃ、成績下がってもわからないわね」

 

 

 マサエモンは、運転もすこぶる下手だった。

 

 教習所に行っても、ほとんどオタオタして、

指導員からハンコをもらえなったそうだ。

 

 

「どうだ、雅人、教習所は?」と

かれの母方のおばあさん、

こちらも地主さんで、

屋号が上総屋というのだが、

すぐにかれの祖母は教習所に電話し、

「なんで雅人に、ハンコをくれんのや」

と、怒鳴ったらしい。

 

 翌日、「しかたねぇなぁ」と、ハンコを

何個も押してくれたという。

 

 だから、かれは、めちゃめちゃな状態で、

教習所を卒業した。

 

 そのとき、教習官から

「免許はやるが運転するな」と、言われた。

 

 

 そんなかれだから、

家に駐車するとき、

アセッてブロック塀に激突し、

ブロック塀をねこそぎ倒したこともある。

 

かれが秀才だったかと言われれば、

あんまり「はい」とは言えないようだったが、

大学卒業後は、父親のコネなのか、

エネルギーなんとか機構とかいう、

半官半民の会社に就職し、

安泰であったはずである。

 

 

 が、

かれは60歳に満たずに亡くなってしまった。

病気なのか事故なのか、それもわからない。

 

 

 この無念さを、だれと共有しようか。

大学時代の仲間、

野口も北海道にいるだろうが、

電話番号をしらない。

ミーヤは、息子さんを連れて、

店に来てくれたのだが、

連絡先を聞かなかった。

洋子さんとは年賀はがきのやりとりだけだ。

 

 つまり、マサエモンを共有するヒトが

いないので、わたしはかれの訃報を

わが胸の内におさめるしかなかったのである

 

 しかたなく、唯一、大学の友人で、

マサエモンを知っている人物がいたので、

そのひとにわたしは、今日電話した。

 

 

「なに?

 

「マサエモン死んだよ」

 

 「え。ほんと」

 

「うん」

 

 わたしの妻は「え。ほんと」だけ答えたのだ。