センター試験当日によせて

2019/01/20
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 センター試験当日である。

 

なぜ、ひとは受験をするのか。

いい大学をめざすからである。

なぜ、いい大学をめざすのか。

いい就職を得るためである。

なぜ、いい就職先なのか、

そこで人並みの給料を得、

人並みの結婚をし、

人並みの人生をおくるためである。

それが、ひとの幸福論というものである。

 

 

 じっさい、いまの高校生で、

その高校をその実態、

教育理念で選んでいるひとは

ほとんどいない。

中学校の先生が、きみの内申は

このくらいで

偏差値はこのくらいだから、

このへんの高校が

いいのではないか、と指導される。

 

 じつは、この進路指導も

あやしいもので、

すっかりいまの資本主義システムの

潮流に流されただけのことなのである。

 

 

 きみは、昆虫採集が好きなんだから、

こんな高校がいいんじゃない、なんて

導いてくれる先生なんていやしない。

(じっさい、昆虫採集の好きな子が

あつまる高校などないとおもうけれども)

 

 つまり、内申と偏差値で選んだ学校が

ベストチョイスだと

信じてうたがわない。

それが、生徒にとって、

もっとも正しいことだと確信に満ちている。

 

 

 だから、生徒は、入学してから、

はじめてそこの学校の教育理念などを

おそまつながら知ったりするのだ。

 

 

 つまり、

すべては「ポジョン取り」なのである。

 

この社会システム、

つまり資本主義のシステムは、

けっきょくひとの

個別的価値観を根こそぎ否定させ、

このシステムに結果的に強制的に

組み込ませただけのことである。

 

 

 資本主義は、学歴社会を生産した。

高学歴、

高収入という資本主義の「お約束」は、

にんげん的なにんげんらしい存在よりも、

まずは、学歴を優先させたのである。

 

 ようするに、中学校の入試担当は、

このシステムの虜になっているのだ。

 

 しかし、その虜がまちがっていると、

わたしはもうしあげてはいない。

それが、世の常だともうしあげている。

 

 

 ひょっとして、大学に進まなくて、

ひろい草原で、

ミツバチの蜜をとっているほうが、

その子にとってしあわせかもしれないのだ。

 

 だが、世間がゆるさない、親がゆるさない。

 

 

「ばかなこといいなさんな、

なにがミツバチだ!

 

 しかし、この「ばかなこと」の裏側には、

資本主義システムの

悪夢が紐づいているということに

世間も親も無自覚である。

 

 しかし、資本主義がまちがいなのではない。

その主義に隷属していくうちに、

まちがいが生産されただけである。

 

 

 民主党といういまは存在しない

なさけない党が、いちどは政権与党になった。

 

 

 その当時は、

右肩上がりの経済はどうなんだろう。

もういいんじゃないかな。

もっとにんげんはにんげんらしく、

コミュニティも活発にし、

自然と調和する世の中がいいんじゃないか、

なんていう時代だった。

 

 

その潮流にのったのが民主党だったのだが、

それは、にんげんの根本の価値観からすれば

みごとなほど正しい選択だった

かもしれないし、

産業構造改革の絶好の機会でもあった。

 

しかし、それは頓挫した。

 

民主党は、その声にまったく力量をみせずに、

とうとう解党してしまったのは、愚かである。

 自己破産じゃないか。

 

 民主党が政権をにぎったときに、

じつは、多数のひとが、それに不満を

抱いていたのは事実である。

 

 なぜなら、いままで構築してきた、

資本主義や、それにともなう学歴社会が

ひっくり返されるかもしれないからだ。

 

 

 

 だって、ポジョン取りにだけ、

専念していれば、

じぶんの子どもを、名門私立にいれて、

そのまんま小学校、中学、高校に進学させ、

そして、名門大学に入学さえしてくれれば、

それで、

子どもの幸福を与えることができるだろうと、

まったく疑いもなく、

そして、子育てはうまくいっていると、

信じている大人たちがいるわけで、

へんに、いまの体勢を変えてくれるな、

とおもっているひとが

多々いたということなのだ。

 

 そこにいくと、自民党は、とりあえず

このシステムを堅持してくれそうだから、

原発には反対だし、安保法制にもノーだし、

憲法改正も困ったもんだし

働き方改革もへん、

マスコミの締め付けもおかしいと、

政策のほとんどに賛成しかねるが、

それでも、やはり、自民党にしよう、と

おもったひとが、

友だちだけを優遇し、奥さんをかばい、

その腹心はめちゃくちゃな発言をする

あの自民党に一票を投じたのである。

 

 

 話をもどすが、

親は子どもの本質をとらえることより、

社会システムにどう順応させようとするか

ということに躍起である。

 

 そして、そこに疑う余地は微塵もない。

 

金に余裕があって、

思考停止しているひとにとって、

子育ては、よい私立にいれ、

よい就職をし、よい生活、そんな

個人の価値観などをネグレクトし、

それが、その子にとってもっとも

正しい道であるとおもいこんでいる。

 

 

 こんふうに、学歴社会のシステムによって、

個人の幸福感が得られるのならば、

それは、そのシステムに支配されている

だけなのかもしれない。

 

 

こういう世の中をミッシェル・フーコーは

「監獄理論」とよんだ。

 

 

学歴社会から抜け落ちた輩は「だめなやつ」

という烙印をおされるのである。

 

資本主義社会から脱落したやつは

「役立たず」とレッテルを貼られる。

 

 

これは、たったひとつの物差しで

ひとを序列化したことにほかならない。

 

 

それを、フーコーは

「理性の思い上がり」であると言った。

 

 

われわれは、自由に暮らしているようでいて、

じつは社会に監視、

支配されているということである。

 

 とくに、大都会では、いったい

じぶんの暮らしというものがあるのか、

すこぶる疑問である。

 

 朝早くから夜まで働いて、そして就寝。

その繰り返しじゃないか。

学生も、毎朝学校へ行き、

夕方から塾に通い、

一流大学めざして勉強し、そして就寝。

 

だから、趣味に明け暮れ楽しいな、

なんていうサラリーマンも

学生もなかなかあたりにはいそうにない。

 

 

 動機づけという言葉がある。

モチベーションである。

 

 リチャード・ローティというひとは、

動機づけを「無知なるひかり」と呼んだ。

 

 じぶんは無知であるがゆえに、

なにかを知りたい、これが動機づけである。

 

 

 これを、カント流にいうと

「定言命法」という。

じぶんの知りたいことを知ろうとする

いわゆる知的快楽を求める生き方である。

 

 

 いまの資本主義が産んだ学歴社会は、

「無知なるひかり」ではない。

「定言命法」でもない。

 

 

 なになにのために、なにかをする。

つまり、

なにかの目的のためにある行為をすること、

これを「仮言命法」というが、

勉強は、高学歴、高収入にこだわるいじょう、

「仮言命法」にならざるを得ないのである。

 

 

 ある一部の親は、

そんな子どもの教育のしかたに

疑問を抱いているにちがいないけれども、

だからといって、

いいよ、お前は、

大間でマグロを獲りたいなら

それもいいじゃないか、

なんていうわけない。

 

 うちの子だけ、このレールから外れることが

その子の不幸だと信じているからである。

 だから、なるべく、

この幸福論はかんがえないように

「みんなのしているように教育する」という

認知的斉合性によって

親は子を育てるのである。

 

 

 だから、いまの「動機づけ」は、

「無知なるひかり」ではなく

「既知なるひかり」なのだ。

 

「既知なるひかり」で勉強したところで

ひとつも面白くないのである。そうやって、

世の中に出てみても、面白くないのである。

 

 ポジション取りは、

けっきょく面白くないのである。

 

 

 ようするに、認知的斉合性の悪夢のなかに

すっぽりうずもれている親は、

この思考停止によって、

じぶんなりのかんがえを捨て、

このシステムの渦のなかに

身をゆだねているのだから、

この図式は、

全体主義の構図に極度に類比的なのだ。

 

ただ、その指導者たるものが、

ムッソリーニやヒトラーのような

にんげんではなく

「システム」だということに過ぎない。

 

 やはり監獄だ。

 

 

 だから、その証拠に、

いまの学生のほとんどが

「趣味はありません」と答えるではないか。