わかっていても

2019/02/10
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 わたしがまだ高校の教員だったころ、

その学校は、上意下達、先輩後輩の

席順がきっちりときまっていて、

下の者が反抗したり、逆らったりできるような

空間ではなかった。

 

 まだ、新人だったころ、

先輩の先生からは「育てなければな」なんて、

目の前で言われたものだ。

 

 教員というものは、職場で育てられる商売なのだと、

そのとき、はじめて知ったのである。

 

 とくにヤジマ先生(仮称)には、大先輩で、

かれの言うことには逆らえなかった。

 

「せんせい、修学旅行引率、はじめてなんですか」

と、クラスの生徒に言われた。

 

 たしかに、

はじめての受け持ちクラスだったので、

とうぜん、修学旅行の引率ははじめてである。

 

「そうだけれど、なんでさ」

 

「ヤジマ先生が、

それが心配だって言ってました」

 

ヤジマさんは、

うちのクラスで日本史を教えていたので、

クラスで、その話をしたのだろう。

 

かれは、わたしをボトムまで

落とし込めることを

日常的にしていたので、そんな話くらい

クラスでするだろうことは容易に

想像がついた。

 

 毎月ごとの出欠統計という回覧板が

学年ごとにまわってくるのだが、

ヤジマ先生からそれを渡されたとき、

「お預かりします」と言ったら、

「預かってもらっちゃ困るんだよ、

回してくんないとよ」と言い返してきた。

 

かれは、

よほどわたしが嫌いだったのだろうが、

一事が万事、こんな調子だ。

 

 ベテランになれば、

そう言われたら、

その回覧板をくるくる回して、

「はい、いつもより長く回しております」

なんて言えたのだろうが、

そんな余裕などなかった。

 

 いざ、修学旅行の当日、

新幹線の座席にグリーン車がまじっていて、

「じゃ、A組から乗っていいか」と、

東京駅のホームでヤジマさんから言われた。

 

 ほかの担任は、うなずくだけで、

けっきょく、

A組担当のヤジマさんのクラスと、

B組の半分がグリーン車に乗りこんだ。

 

 

 これは、あとから気づいたのだが、

東急観光のカミシゲ(仮称)というやつが、

いつもヤジマさんとつるんでいたので、

カミシゲが手をまわしたにちがいなかった。

 

 A組というのは、文型の選抜クラスで

担任はヤジマさんだった。

 

 

 その当時、わたしの奉職していた学校は、

ほとんど外部試験ができるような

「タマ」じゃなく、

帝京大学の推薦入試を120名くらい受験して、

せいぜい二人か三人が

合格するようなレベルだった。

 

 

 だが、たまたま出来のいい生徒がいて、

神奈川大学に自力で五、六名ほど入学していた。

 

 

 神奈川大学には、

同学部に3人在学していると、

その出身校から、

ひとり、推薦されるという制度があった。

 

 だから、ヤジマさんは、

自分のクラスのトップに、

躍起になってその枠をぶんどりに行ったのだ。

 

 

 実力で受かる生徒を作らなければ、

おのず、その枠は消滅することは

自明のことで、実力で受かることが

ささやかでも

可能なのはA組の生徒しかいないのに

そのA組の生徒にそういう

指導をかれはしなかった。

 

 

 けっきょく、数年で、

神奈川大学の推薦枠は消滅した。

 

 アリとキリギリスのキリギリスの

物語である。

じぶんでじぶんの首を絞めにいったようなものである。

 

 

 世の中は、このように破滅にむかうことが

わかっていながら、そこに邁進するということがある。

 

 わが国の社会保障制度もそれである。

 

 社会保障制度が

完備されていなかった時代は、

じぶんの子たちの世話にならざるを得ず、

だから、なるべくたくさんの子を育て、

その子たちに、老後を託したのであるが、

そういう個人から、

社会全体が老後の面倒を見るようになると、

子どもを作ることをしなくなる、

と、小塩隆士というひとが言っていたが、

少子化の原因はそれだけではないとおもうが、

その少ない子たちが、社会全体の社会保障を

担わなければならなくなった。

 

 社会保障制度を「親孝行の社会化」と

よばれるようだが、

親孝行する子どもの負担は反比例で大きくなる。

 

 社会保障制度の

パラドクスはこういうところに

隠されているのであった。

 

 

話がもどるが、30数年まえ、

わたしがその高校に

就職して「育てなくては」など

言っていた先輩から、

やく30年間に、

かれを含め諸先輩から教わったことは、

ひとつもなかった。皆無である。

 

むしろ、わたしが、

教わったのは予備校の先生からである。

 それも、知識としては、

ひとつかふたつくらいで、

あとは、じぶんでかんがえ、

じぶんで教授法を編み出した。

 

 

ある日、

「育てなくては」と言っていた先生が、

職員室の片すみで参考書を片手に

ワードプロセッサーで

漢詩のプリントを作っていた。

 

 ふと見たら、

学研の「漢文」という参考書である。

 

「あれ」とわたしが肩越しにそういうと

「なに?」とその先生がふりむくので

わたしはひとこと申し上げたのだ。

「その参考書、わたしが書いたものですよ」