おひさしぶりです

2019/03/20
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 荻上チキという若い評論家は

日本人を「農耕民族」としてくくることを

いぶかしく語っているが、わたしども、

剣持武彦という先生からご教示いただいたものは、まず、日本人は農耕民族であるというところが

起点にあるので、

そのフレームワークから

脱することができない。

 

 だって、「みんなといっしょ」という

発想はいつも我々につきまとっているし、

国会をみてもわかるように、

議論は下手だが、赤坂自民亭でのおしゃべりは

賑やかそうじゃないか。

おしゃべり好きの議論ぎらいは

農耕民族の典型である。

 

 

 農耕民族特有の考量は、

みんなといっしょだが、それと同時に

みんなよりもちょっといいもの、

つまりアッパーミドルなものを

欲するところもある。

 

 それがブランド志向というものだ。

 

 ルイビトンの8割は日本人が買っているそうである。

残りの2割は、フランスに旅行した日本人が

購入しているらしい。

 

 モード現象とは、

上位にある個人や集団の独自性を模倣し、

一方で、下位の個人や集団との違いを強調、

差異化のようにみせて、じつは、

同化へのベクトルでしかない

社会装置をそう呼ぶ。

 

 つまり、アッパーミドルをよそおって、

まわりを見回してみると、みんなルイビトンを

持ってるじゃないか、という事況をいう。

 

 

 リクルートスーツなどみても

みんないっしょの恰好である。

それで企業は、個性的な人材を要求している。

こういう社会矛盾を、農耕民族は

いとも無自覚にくりひろげているのである。

 

 

日本の企業のトップは、現在トヨタで、

世界36位だそうだ。

 

 

数十年前までは、世界のトップ企業の十社中、

八社までが日本企業であったが、

日本はすっかり「ダメ」になって、

いま、世界のトップ十社中、八社までが、

アメリカの会社で、残りは中国だという。

 

 

いまじゃ、中国の金持ちが、日本に

工場を出して、日本人を雇っている。

 

 

 日本の製品がやはり中国よりも

性能がいいからだという。

 

 

 東インド会社をつくったイギリスが、

いまでは、そのインドの会社にジャガーが

乗っ取られたように、日本もすぐそこまで、

おとなり中国に国土を奪われようとしているのである。

 

 じっさい、「日本」という国名だって、

日の本、つまり、もっとも早く日が昇る国という意なのだが、

これも、「中国」よりも「早く」昇ります、

という意味合いを含んでいる。

 

 ようするに、基準は「中国」であるのだ。

 

もともと、中国は「殷」「周」「清」「唐」と漢字一文字で

あらわしていて、これか世界の中心を意味する。

その周辺国は「百済」「任那」「渤海」「日本」と

漢字二文字で、中国に敬意を表していたことは

明白である。

 

 

 もし、中国を念頭に置いていないなら、

日本は「倭」でよかったのである。

 

 

 話をもどすが、この「だめな国」に成り下がったことに、

駅向こうのラーメン店主の岸さん(仮名)が、

「大学なんか行かないで、高校から就職させればいいんだよ。

それも、高卒からちゃんと給料をあげて、

大学行ったやつとおんなじくらい支給すれば、

早く結婚もするだろうし、子どもも多く作るだろう。

そうすれば、人材不足も解決できるし、

うまく世の中回るはずだよ」と語っていた。

 

御意である。

 

 この世の中、とにかく大学に進むことを

まず考えている。大学に進んで、一流企業に入ることが、

世の親の子に対する使命であるとおもいこんでいる。

 

 

岸さんの言うように、高校からすぐ働いて、

年収が700万くらいあれば、ずいぶん早く、

一戸建ても持てるかもしれないし、

結婚も早まり、おのず子どもも増えるかもしれない。

 

 

 が、そのためには、日本人の価値観を

変えないとうまくゆかないだろう。

いわゆる産業構造改革である。

 

 

 しかし、だれしも、いまのこのシステムを

変えようとするひとはいない。

 

 ひとりだけ、このシステムから外れることを

恐れているのである。

とくに、農耕民族は、ひとりだけ別の考えで

生きることを教わってきていないからである。

 

 

 もし、岸さんの言うような社会になっても、

わたしの子だけは、ほかの子とちがって

大学に進んでもらいたい、そう願うだろう。

 

 だってお隣の子は大学に進んだじゃない。

上位にあるお隣の独自性を模倣し、

一方で、下位の高校で就職した子との違いを強調、

差異化のようにみせて、

じつは、同化へのベクトルでしかない、

そう、モード現象とおんなじ社会装置が作動するのだ。

 

 

じぶんの家だけは違うんだ、この新しいシステムになっても、

じぶんの子だけは、大学に、と願う家庭が

ほとんどだったら、けっきょく、この

受験戦争も、学歴社会もはびこりつづけるわけだ。

 

 

 こういう、どうしようもない状態を

ミッシェル・フーコーは「監獄理論」と呼んだが、まさにわれわれは、監獄のなかで、

農耕作業をしていることになる。

 

 

 農耕民族だけで語るなと説く、

若い評論家がいたとしても、

じぶんたちの姿を見てみればいい。

 

 

 脚は短く、そのくせ胴はながく、

ご飯がおいしいと日々、炊飯器で米をたべている。

 

農耕民族そのままじゃないか。