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11:30~14:00/18:00~22:00(平日はランチのみ)
となりのラーメン屋の店主が
赤いのれんを提げようとしていたので、
わたしは、ふと訊いてみた。
「お父さん、いくつになったのよ」
と、店主は、...
「んー、もう80だよ」
いやはや、たいしたもんだ。
80まで、板場にひとりで立って切り盛りする。
わたしなど、おそらくできない相談だろう。
それに、その店には休みというものがない。
平日はおろか、土曜日も日曜日も昼・夜の営業である。
たしかに、奥さんも手伝ってはいるものの
ひとりで一軒の店を持つ、というのには
そうとうの体力がいる。
昨今、芸能界をみてもわかるとおり、
「ひとり」ということが少ない。
TBSの「レコード大賞」でさえ、
さいきんは、なんとか坂とか、なんとか48、とかあるいは、エグザイルとか、
とにかく、集団疎開よろしく
団体さんが受賞している。
(西野カナは例外)
とくに、なんとか坂やなんとか48など、ほとんど素人に毛のはえたような
ネオテニィをうじゃうじゃ
一クラス分ほど集めて、
大の大人が老獪にも
あやつっているだけではないか。
よほど、
このラーメン屋のじいさんのほうが
エライとわたしはおもう。
そういえば、このごろ、「ソロ活」がはやっているという。
「ソロ活」、聞きなれないコトバだが、
「ひとりでなんでもする」という
概念らしい。
こういう新しい概念を
操作概念というが、
「ソロ活」はまさしく、
もっともあたらしい操作概念である。
むかしは「ぼっち」とか
「おひとりさま」という
言い方だったが、
それより「ソロ活」はアクティブで
ポジィティブ感がつよまった。
たとえば、ひとりで、
ディズニーランドに行くとか、
女子がラーメン屋にぽつんと入るとか、
映画を観る、
ひとりカラオケ、
ひとりプラネタリウム、
ひとりでフレンチのフルコースを食べる、など。
とにかく、すべてひとりでするのだ。
この語の造語者は、
朝井麻由美というひとらしいが、
彼女がいうには、
ソロ活でもっともむつかしいのは、
バーベキューだそうである。
荷物も多いし、
そんなに食べられない。
ただ、この「ソロ活」が
にわかに流行っているその裏側に、
インスタグラムやその他のSNSの隆盛に
担保されているという
事情があるわけで、
けっきょく、
何万人というフォロワーがいる、
ということは、
単純なひとりとは「わけ」がちがう。
朝井さんは、「ソロ活」の啓発本などを出版されていて、
それは、つまるところ、
すでに、
ひとりで楽しむことが
目的になっておらず、
「ソロ活」をするのに
「なにをすべきか」というところに
目的がシフトしていることは、
おそらく
ご本人も自覚されているだろう。
純粋な「ソロ活」女子の
目的意識は希釈されているのである。
社会学的にみても、
手段と目的というのは、
かんたんにシフトしてしまうものだ。
「アジア主義」という考量は、
アジア諸国を列強からまもるため、
いちばんはやく近代化をなしとげた
日本がまずは、アジアを統一して、
そのあとで、
アジア諸国に独立させようとする、
そんな崇高なプランであったのが、
蓋をあければ、
アジア諸国統一が目的になってしまったというおそまつが、
近代のわが国の歴史である。
安倍首相が、
憲法改定にやっきになっているが、
なんのための安保法制改正なのか、
その目的がはっきりしない。
むしろ、憲法をすこしでもいじることが
目的じゃないかとさえおもうのだ。
手段と目的とは、
明白に区分しておかないと、
方向性がずれてしまう。
これは大事なことだとおもうよ。
さて「ひとり」ということに
話をもどせば、
われわれは、
じつは共同体を守るという意識を
もつことそれ自体が、
「ひとり」という強い個人を
輩出するエネルギーと
なっているのだが、
いま、「ソロ活」にせよ、
「ひとり」にせよ、
そんな共同体を守ろうとする気持ちは
とっくになくなっている。
たとえば、
合衆国のユダヤ系被差別民が
団結して、
ゴールドマンサックスを創設したこと、
あるいは、わが国でも、
中華街など、華僑の集まっての
一軒、一軒なのだから、
「故郷に錦を飾る」のような
個人が帰ることのできる場においての
共同体こそ、
つよい個人が作り上げられるモチベーションであったのだ。
朝井麻由美さんの「ソロ活」も
ひとりでなんでもしているように
見えるのだが、
SNSのフォロワーという共同体に
支えられて、
行動しているという見方をすれば、
ひどく、あたらしい社会システムということになる。
つまり、ひとりではないのである。
また、インターネット媒体の
共同体は、
触知可能なわけでなく、
形而上的なものだから、
やはり、
たよりないといえばそれまでである。
フォロワーという脆弱な
仮想共同体に支えられながら
「ソロ活」をする。
それはひょっとすると
純粋な「ソロ活」ではなく、
事後的に、そのフォロワーたちに
「イイね」をもらうための、
承認欲求のための
「ソロ活」になってはいないだろうか。
ともかくも、やはり、
目的がシフトされてしまっている
ということには違いないだろう。
ほんとうに、
ひとりで新たな体験をし、
じぶんの新しい面を見出したり、
充実した時間を
味わったりすることが目的なら、
そのことを、
けっしてひとに語ってはならない。
そして、
「ソロ活」をしているときは、
携帯電話も、パソコンも持ち歩かない、
というスタイルこそ、
本質的な「ソロ活」なのではないかと、
わたしはおもうのだ。
ましてや、
それを本にして出版することなど
御法度である。
さながら「一匹オオカミの会」を発足させることの矛盾と
構造的には変わらないからである。
そんなことをかんがえてみると、
となりのラーメン屋のお父さんは、
もともと「ソロ活」ではないか。
「いや~、もうすぐやめるよ」
のれんをかけながら、
爺さんはすこし笑いながらそう語った。
しかし、歳のせいなのか、
語る顔には、涙が流れ、
鼻水が出でていた。