知性と認識

2019/04/11
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 店というものには

バイオリズムのようなものがあって、

混むときはいっきに集中するが、

お客さんがいなくなるとガランとする。

 

 下手すると、店外で待ってもらわないと

いけないときもままある。

 

 その一瞬の場をみて、

あの店は繁盛しているとおもう。

 

 が、ガランとしている一瞬をみて、

ずいぶん暇な店だなとおもう。

 

 ひとの認識というものは、だいたい

そんなものなのだ。

 

 ベーコンというひとが

実験をして物事の真理をつかんだ、

と近代ヨーロッパではずいぶん

もてはやされたが、カントといひとが現れて、

でも、その実験、ベーコンさんの

興味のあるものだけでしょ、

あまねく実験していないんだから、

おのず、バイアスかかるよね、と批判したのも

うなずける。

 

 

 しま坂では、もっとも味の濃い、

「家風ラーメン」という商品がある。

それも、具のすくない600円の特別メニューがあるが、

これを学生さんが注文し、かれは、それを

ツィッターにあげた。

 

「しま坂、味が濃い」

 

その通りだよ、君。

 

 だって、君はもっとも安いラーメンを注文し、

もっとも味の濃いラーメンを食べ、

そして「味が濃い」とツィートした。

 

  それは正しい。が、間違っている。

 

かれは、つづいてつぶやいていた。

「ぼくはやっぱり歌志軒がいい」と。

 

 だいたい、そのレベルだったのだ。

 

 よそ様の店の悪口は言えないから、言わないが、

かれには、どうぞ好きにしてください、ともうしあげたい。

 

 

 ひとの認識というものは、そのくらい

あてにならないものなのである。

 

 

 一事が万事、一度きりの体験で、それがすべてと

おもったら、ほんとうの「よさ」を

見失うこともある。

 

渡辺美里が「My Revolution」を唄うとき、

三度くらいフラットで歌いだしたことがあるが、

その一度のミスで、渡辺美里はピッチが甘いと

断定することはないだろう。

 

 

 そして、断定するということは、体験からではなく、

経験から得なくてはならいはずだ。

 

 体験と経験はちがう。

 

 数々の体験の中から、規範性のある条件が

経験になるのである。

 

 規範性とは、かんたんに言えば「教え」である。

体験の中から、じぶんにとって「教え」が

加味されたものを「経験」と呼べるのである。

 

 おれ、昨日、海行ってきたよ。

 

 

 これは体験。

 

 

 でも、気を付けな、いまの海、クラゲがでるぜ。

 

 これは経験。

 

 

 やはり、経験を重ねて、

ものごとは判断すべきである。

 

 

 知性とはなにか。

 

 わたしは〇〇について知っている、

という知的達成の累積ではなくて、

わたしは〇〇について不十分にしか知らないという

不能の語法について練磨される、と語ったのは、

レヴィナスという学者だが、

かんたんに言えば

「知性的とは何を知らないかを知っている」という

ことにほかならない。

 

 

 つまり、認識とは、知性的でなくてはならない

ということなのだ。

 

 

 夕方から塾に行っているが、

そこの事務さんには学生さんもいる。

 

「きみ、学部はなに」と

わたしがたずねると

「法学です」と答えた。

 

「そう。じゃ、レッシグとか知ってる?

と訊くと、「いえ」と答える。

 

「じゃ、ハンス・ケルゼンとか、やってる?

と、言えば「知りません」と言う。

 

 

 レッシグというひとは「コード」という

本を出版し、憲法意思とは、憲法を作ったひとが

なにを思考したかを考えることだと説いたひとだ。

いわゆる、原因主義というものである。

 

 

ハンス・ケルゼンは、「純粋法学」という

科学的正確さを追求した法理論でひどく有名なはずだ。

 

 

 彼女が「知りません」のあとに

わたしに言ったことは

「いま、概括的なことを授業でしているので、

あまり細かいことはしていません」と。

 

 

 知性とは、何を知らないかを知ることなのだが、

彼女は、じぶんの知らないことは、

まったく論外なのである、という生き方をしている。

 

 

 「その人は、どんな研究をした人ですか」

とか、知らないことに関して興味をもつ、

というのが、学生の本分なのではないかとおもうのだが、

彼女はそうではなかった。

 

 だから、わたしは、その子に会っても、

二度と話をすることはないのである