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コミュニケーションの対義語は
コントロールである。これは言語的、
辞書的な領域ではなく、
むしろ、社会学的といってもよい。
つまり、話し合いが苦手なひとは、
ひとをコントロールしようとするのである。
話し合って、両者の意見が対立するなら、
「折り合いをつける」ようにすればいいのである。
が、言葉の足りないひと、かんがえの廻らないひとは
それができない。すこしは、ヘーゲルの弁証法を
学べばいいのだろうが、いまさら学問する気は
そんなひとにはモウトウないだろう。
ヘーゲルがいうには、たとえば、
社会と家庭とは矛盾する対立項であるが、
その矛盾する対立項をすり合わしてみる。
社会とは、個人が世に出て、
ある意味、闘いの場であるのにたいし、
家庭とは、個人のやすらぎの場である。
そこに対立がある。で、その対立を重ね合わせた
ドミナントな位置、上層にあるのが「国家」だと、
ヘーゲルはいう。
こういう対立したもの同士を考量して、
さらに上層な結論にしてゆく構図を
アウフヘーベン、止揚というのだが、
かんがえの足りないひとには、それができない。
その根源には劣等感がうずまいている。
負けたくないのである。そういう劣等感の
強いにんげんは、言い負かされると「シュン」となってしまう。
これが、悔しくてひとを操作しようとするのだ。
ようするに、コミュニケーションツールを
もたないひとは、
劣等感によって、ひとをコントロールするようになるのだ。
いっさい、ひとの言ったことを聞かず、
じぶんの思い通りにすることで、有能感をもつのだ。
そして、具合の悪いことに、
その劣等感はけっして、じぶんで自覚するものではない。
「じぶんには間違いがない、まちがっているのは
あんただ」
ここが、コントロールにんげんのもっとも
怖いところなのである。
みずからの劣等感に気づき、
相手を自説にひきこもうとしているところに、
相手の苦悩や苦痛があるという事情を
認知してくれるなら、それはたいしたものである。
それなら、
「ね、ちゃんと話しあおうよ」となるはずだ。
じぶんの不利な、聞きたくない情報を
無意識の部屋にいれてしまうことを
フロイトというひとは「抑圧」とよんだ。
つまり、コントロールにんげんは、
みずからの劣等感を抑圧し、
おまけにひとに圧力をかけているという
事情も抑圧しているのである。
この抑圧の精神構造は、
現代では「認知的斉合性」と言っているのだが、
ハイダーとかフェスティンガーというひとが、
エビデンスをもって解明しているので、
このコントロール派の精神構造は、むしろ、
「認知的斉合理論」にあてはめたほうが
妥当かもしれない。
フロイト先生は、エビデンスに弱いのね。
ある大手企業の常務さんが、
こんなささやかな店で宴会をしてくださるという。
「嫁も来るんで、よろしくな」
と、わたしと同世代の常務さんはそういって
日にちを指定された。
予約人数は10名である。
わたしの店の満席状態。
で、まだ日にちがあるのだが、とある日曜日、
常務の友だちのKさんが
飲みにきていて
「こんどの宴会、料理はすこしでいいから、
3500円にしてよ」と言ってきた。
常務さんの宴会なのだが、Kさんが
仕切っているので、それはおかしな話だ。
「大阪から、常務の奥様がお見えになるんですよ。
料理ださなければおもてなしにならないじゃないですか」
「いいんだよ、料理は、残したらいけないし」
いままで、常務の宴会で料理がのこったことはまずない。
「飲み放題でやるんでしょ」
「そう、3500円で」
「うちは、飲み放題、料理付は4000円からなんですけれど、
3500円は、学生さんのときだけですけれど」
「おれ、学生だよ」
「え、あなた学生さんでしたか」
「そう、だから、3500円な」
と、こちらの言い分はまったく
聞いてもらえず、強引にそのようになってしまった。
おそらく、うちにあるウィスキーをすべて
飲み干そうということなのではないかと、
わたしはおもった。が、それをかれには
言うはずもない。大切なお客さんのひとりだからである。
うちにある20年物のウイスキーをぜんぶ
飲まれたら、3500円などではとうてい
割が合わない。
なんども、Kさんに問い合わせたのだが、
いっこうに言うことを曲げなかった。
完全なるコントロールである。
だから、わたしは、グループLINEで、
「今回は、学生の値段でさせていただきます。
Kさんが、学生だというから。
ですから、Kさんがご来店のさいには
学生証の提示をねがいます」と
冗談を半分まじえて書いた、つもりだった。
が、それをみたKさんは激怒された。
「真意が伝わらず、もう店には行きません」
というような内容だった。
Kさんの真意というのは、店もオーダー料理だと
たいへんだし、こちらも、一杯、300円ずつ払うのも
面倒(うちの店は、一杯、300円なのだ)だし、
料理は残すといけないので半分くらいで、
というものだった。
Kさんはもともと料理人だから、
クォンティティよりクオリティに金額が
かさむことくらいは承知のはず。
量を半分にしたところで、
原材料費はさしてかわるものではない。
「たくさん飲みたいからまけてくれよ」
そうはなかなか言えないし。
ようするに、ひとの真意というものは、
認知的斉合性理論のなかにおさまっていて、
真意を前景化したり、言語化したりするのは、
じつは、かなり困難なことであり、
また、じぶんにはまったく悪いところがない、
悪いところはあんただ図式が、やはり
認知的斉合性のなかにうずまっているときは、
その当事者になにを言っても伝わらない、
というものなのだ。
これが、ひとの仲を裂く要因なのだ。
けっきょく、二度とKさんはご来店しなくなり、
かれのまわりの方がたも、
店にはいらっしゃらなくなるだろう。
けっきょく、わたしどもが認識したことは、
コミュニケーションのないコントロールだけは、
願い下げだということだけなのであった。
ただ、Kさんのコントロールには、劣等感は
みじんもない。ようするに、コミュケーションの
対義語のコントロールには、無意識の劣等感からくるものと、
みずからの無意識の欲望とからくるものと、
二種類ある、ということもわたしは学んだのである。