おいしい

2019/07/19
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 清水市代という女流棋士に入門した、

石橋幸緒という女性は、

もともと身体がよわく、腸閉塞で生後九か月で手術、

元気に育つことさえ危ぶまれたらしい。

 

 口から食物を摂取できないので、

すべてが点滴。苦い薬だけを飲むことが許された。

しかし、この苦い薬も彼女にはしあわせだった。

口から食することのできる唯一のものだったからである。

だから、水ものまずにずっと口の中で

もぐもぐしていたそうだ。

 

 そしてつぶやく。「おいしい」と。

 

 保坂和志の『世界のはじまりの存在論』では、

この事情についてこう語っている。

 

「ここで『おいしい』という言葉は、『まずい』と

対になる判断を意味していない。『味がある』という

事実、さらには『食べる』という行為それ自体を

指している。(中略)『おいしいから食べる』のではなく、

『食べることがおいしい』から食べる」

 

 

 食べるという行為、それはもっとも本能的な行為であり、

マズローの分節するところの、最下位にあたる

「生理的欲求」にあたる。

そしてちなみに、食べることへの評価である

「おいしい」はもちろん自然言語である。

 

 福沢諭吉や西周が造語した言語とはちがう。

 

そもそも、われわれはいつから、この「おいしい」という

感覚を身に着けたのであろうか。

 

仏教では、もっと美味なるものを「醍醐」とよんだ。

「醍醐味」の「醍醐」である。

牛乳を煮詰めてできたものらしいが、

わたしはまだその「醍醐」なるものをみたことも

食したこともない。

 

古代では、甘味がなかったものだから、

その甘さにさぞかし吃驚したのではないか。

 

 

 「うまみ」とはなにか、調べれば、

タンパク質、つまりアミノ酸と

遺伝子、つまり核酸によって構成されるものらしいが、

やはり、遺伝子レベルの問題なのだとおもう。

 

 

 スピーシーズとしてのサピエンスの登場は、

五十万年前とされる。

 

 定住社会が一万年前。

そのときヒトははじめて炭水化物を食した。

 

 ようするに、われわれのDNA

遡れば五十万年前までもどれるかもしれないのだ。

 

 何十年来の伝統の「つゆ」とかいっている

焼き鳥屋のタレも、実験すると

数週間で、まったく入れ替わっているらしいが、

こと、ヒトのばあいはそうではなくて、

どこかに、その原始的領野、プリミティブさが偶有されていて

その深淵なる闇のうちから、「うまい」という

感覚が湧き出てくるのではないかと、わたしはおもう。

 

 

 小野茂樹という歌人は、

「ナイーブをつきつめるとプリミティブになる」と

語ったが、このひとことへの氏の慧眼さには

舌を巻くしかないのだが、にんげんのナイーブさは

けっきょくプリミティブな領域に

放たれるわけで、おいしいという感覚も、

そのプリミティブな場に存在するのである。

 

 

 じっさい、うまい、まずいを親からおそわったことは

皆無であるし、言語的にはこういう感覚を

「生得的」「アプリオリ」と呼ぶわけで、

「アプリオリ」なアゴラを旅することは、

みずからの、隠されている核酸をみつける

ことにほかならない。

 

 

 料理を食することは、じぶんの遺伝子の発見である、

そう言い替えてもいい。

 

 ようするに、おいしいものというものは

ひとによってさまざまであるが、そのおいしさは、

そのひとに備わっている遺伝子と密にかかわっており、

どの遺伝子かはわからないが、その琴線にふれたとき、

その感覚がうまれるのだろう。わたしはそうおもう。

 

 

 街にあふれている料理屋の、

化学調味料で味をととのえ、インスタントで

ごまかすやり方では、おそらく核酸レベルまで

「醍醐味」は浸透してゆかないはずだ。

 

 

 自然のもので味をととのえ、自然のもので

調理すれば、じわーとくる滋味が味わえるのじゃないだろうか。

 

 

 五十万年つづいたにんげんの歴史が

いま、そのひとの舌の上に具現化されたのかも

しれない。

 

 じぶんの知らない、じぶんの奥底のじぶんに

会えたのだ。それは、じぶん探しの旅にほかならない。

あるいは探検である。「おいしい」ものとの出会いは

つまるところ、じぶんとの出会いであって、

ようやくたどりついたひとつの遺伝子との出会いでもあった。

ヒトの身体の宇宙、太陽系やアンドロメダ大星雲、

銀河系と匹敵するくらいの

未知なるひとつの星とのめぐり合いと

言っても過言ではない気がする。

 

 

 そういう神秘的な幸福を堪能したとき、

そのひとは「おいしい」ではなく「うまい」でもなく、

「うれしい」でもない。

 

 それは「なつかしい」である。

 

 

 わたしがめざす料理の究極は、

はじめて食べるものでも「なつかしさ」を与えるもの、

これにつきる。

 

「なつかしさ」

それは、太古の時代から受け継ぐみずからの宇宙との

奇蹟的な遭遇の宣言なのである。

 

 

 余談ではあるが、石橋幸緒さんは、まだご存命で、

将棋は引退されたが、いちど、師匠の清水女流王将を

やぶり、女流王将の地位についたこともあった。