歌評

2019/08/07
ロゴ

・しんしんと狂ひゆきたる腕時計に耳押し当てて見る雪の夢

 

有村桔梗さんの「タイムカプセル」の中の一首。この連作のなかにおいて「・百余年ときを刻んだこの家に余白ばかりがさらさら増えて」もあり、茫々たる時のなかにありつづける「家」を詠みこんでいる。

 腰の句「腕時計に」とあっさりと字余りにし、おそらく、この格助詞の「に」はなくても意味はとおるだろうことを理解しながら平然と字余りにする。もちろん、結句が「雪の夢」と名詞止めだから、三句めは名詞にしてはまずいこともあったろう。このへんの事情に作者のことばに対する矜持をかんじるのだが、「しんしん」というオノマトペが「狂ふ」を修飾するとは舌を巻く。わたしは擬音語の使用を認めたがらない一派なのだが、こういう衝突のあるオノマトペ、丸谷才一がいうところの叙述的比喩はおおいに賛成である。

「私の耳は貝の殻 海の響を懐かしむ」ジャンコクトーなら「貝の殻」であるが、有村さんは「腕時計」である。それも年代物の腕時計である。そこには、家族のだれなのか、父なのか祖父なのか、あるいは祖母のものか、その機械式の腕時計は時間をゆがませながら時を刻んでおり、そこに脈々とつづく「家族」というものが象徴されている。結句の「雪の夢」は、ここになにかを打ち込めようとしていたはずだが、やや上の句のエネルギーに押し込められた感も否めないが、好意的に読めば、おそらくは、ノスタルジックな夢なのだろう。それいじょうは読者の想像にゆだねられている。

 日本人は、自然と生者と死者との三すくみで生きていると語るのは内山節であり、武光誠の『日本人なら知っておきたい日本』にある「円の思想」もそれと類比的であるが、けっきょく、「狂ひゆきたる腕時計」も生者と死者とともにいきる作者の立ち位置がみてとれる。「百余年」の作品の「余白」にも、おそらく死にゆく家族のおもいが底流しているようにおもうのだ。また、なぜかわからないが、「しんしんと」の作品にふれると、「雪の夢」とあるのにもかかわらず、どうしても作者は屹立、横になっていないイメージが払拭できずにいる、しかし、これは余談。

 家族や家を詠む歌人で、すぐおもいつくのは川野裕子であるが、「ブラウスの中まで明るき初夏の日のけぶれるごときわが乳房あり」と詠まれて乳癌になられたことをおもうと、おそろしいくらいの言霊というものがあるような気がするのだが、その川野裕子さんの家族の歌のひとつ。

「しんしんとひとすぢ続く蟬のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ」

『ひるがほ』所収、お子を産んだときの作、くしくも初句が「しんしん」であり、産まれゆくものとこれからはかなく死にゆく蝉という対比が、静謐な時間のなかで詠まれている。有村短歌にせよ、河野短歌にせよ、しずかに流れる時を表現者がうけとめるときは、やはり「しんしん」なのだろう。

 さて、「タイムカプセル」という連作を拝読し、おもうことは世の無常であり、しかし、ゆく川のながれのなかに消える泡もあるが、うまれる泡もある。うまれゆくものが死にゆくものを引き受けながら、家族も家も存続してゆくのである。

 だが、「この世の終焉」という絶望にまでは作者の心はおもいおよんでいないような気がした。

 

 ところで、河野さんのご令嬢にこんな作品がある。

 

・砂時計砂をこぼせる秋の日に指折りながら言葉をつなぐ 

 

 有村さんは「腕時計」だが、紅さんは「砂時計」であった。