若いひとはサーモンが好き

2019/10/05
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 寿司ネタで好きなものランキングに

多くの若者たちは「サーモン」をあげる。

なぜだろうか。

 

 もともと江戸前寿司にサーモンなどなかった。

いわゆる鮭なのだが、鮭は生では食べなかった。

あれは、ノルウェーから冷凍されてきた

外国産のシロモノで、大正デモクラシーのひとや

昭和の生き残りはほとんど好まないネタである。

 

 サーモンという寿司ネタは、

脂がそこそこあって、柔らかく、ねっとりとして

おいしいのだろうが、しかし、

食するその向こう側に「味」がないのである。

 奥行がないといってもいい。

 

 食通というひとが、大トロよりも

赤身を好むのは、大トロはたしかに

こってりして、甘くボリューミーで、

高価な食材なのだが、しかし、その奥に

食べた以上の味がない。

 

 表面的なのである。それにくらべて

赤身は、大間の海をはげしく泳いできただろう「ものがたり」を

その一切れの奥に含有しているのだ。

 

 北海道で獲れた鮭、それも鮭児であったなら、

その奥にひめた味はこのうえないだろう。

 

 ようするに、いまの若人は

奥にある味を要求していないのかもしれない。

 

 それを記号学でいうなら、含意、コノタシオンである。

 

 だって、めんどくさいよね。いちいち

食べているときに、その裏側にあるものを

想像するなんて、ま、そんなところかもしれない。

 

 しかし、そういう理由でサーモンを

好んで食するということをきっと、

その人たちは意識していないだろう。

 

 すべてこれは無意識の前景化のはなしなのである。

 

 

 たしかなものとはなにか。

たしかさを背後から自明なものが支えている、

というのがフッサールの現象学である。

 

 たしかなもの、それは、その裏側に

しっかりとした「当たり前」が存在するのだ。

 

 神を信じている信者は、それと同時に

悪魔の存在を否定しない。

 

 来世があるとおもっているひとは、

前世が必然的にあると信じている。

 前世がなければ、来世、後世もありえないからだ。

 

 

「おじいちゃん、若いよね」というときには、

おじいちゃんは若くないという前段があるはずだ。

だって生まれて間もない赤子に「若いですね」と

言うはずがない。

 

 

 現象学では、自明なものが流れのなかで、

「たしかなもの」を支えていると説くが、

言語学でも類比的で、語ったものと同等のものが

語らないところに存在すると説く。

 

 それを記号学的にはコノタシオン(含意)といい、

ソシュール先生だと「シニフィエ」と言う。

 

 それは、けっきょく、どの分野においても、

眼前に存在する「もの」「言語」ともども、

裏支えがあって、それは存在するということに

ほからならい。

 

 

 サイコロの「一」の目の裏側に「六」が

あるように、われわれは、その対極にたいして

満腔の信頼をもってその存在を認めているのである。

 

 

 たしかなもの、それはかならず、

それを支える「たしかなもの」を含んでいる。

 

「母」は「父」という語がなければ存在しない。

「美しい」は「汚い」があってはじめて存在する。

「美人」は「ブス」が必要だ。

 

 ソシュール先生は、これを言語のあいまい性と

捕えたが、フッサールというひとは、これが世界を

作っているとみた。

 

 ただ、いまの世の中をみれば、CGの世界である。

オーグメンテッドリアリティの世である

 

 仮想現実ではなく拡張現実である。

 

この現代性は、含意を要請しない。

 

 すべて平板な空間である。

 

 ディズニーランドのミッキーマウスに

「なんだ、人間がはいっているじゃん」と

ひっそりおもいながら「ミッキー!」とか言って

はしゃぐのだ。

 

着ぐるみのゴジラを見て、「あ、怖!」なんて

おもうのだ。

 

 ひとは、その奥にあるものを見ながら、

それを「見ないふりして」、リアリティを

みずからこしらえてゆくのである。

 

 

が、CG画像を見れば、その奥になにもない。

だから、ひとはなにも想像力を発揮せずに

その画面を見られる。が、しかし、

ぎゃくにそれは、リアリティをうしなう結果を

生んでしまうことになりかねない。

 

 なぜなら、たしかさとは、

自明なるものに支えられなければならないからである。

 

 

CG画面には、それがない。

 

 おいしいと感じるのは、じぶんに含有する

遺伝子との邂逅であると、以前のブログで申し上げたが、

その遺伝子、DNAというのは、「わたし」を

支えてくれる自明なる存在なのである。

 

 わたしがいま現象しているのは、

とりもなおさず、遺伝子という、

「わたし」を背後から支えてくれる自明なものに

よってなのである。

 

 だから、その支えてくれるものを

知りたくて、リカちゃん人形であそびながら、

母性本能という遺伝子を確認するのである。

釣りをしながら、狩猟本能というDNAを見つけに

わざわざ大枚はたいて海にゆくのだ。

 

 すべては、じぶん発見であると同時に、

じぶんとは何かをたしかめたく、遊びという

行為が存在すると言ってもいい。

 

 ところが、前述したCGと同様に

携帯電話、スマートフォンという装置は、

その画面を支える自明なものが存在しないのだ。

 

 

つまり、にんげんが、にんげんである証明を

抹消する装置として機能していると

いっても過言ではないだろう。

 

 

 キャス・サンスティーンが、

インターネットは民主制を滅ぼすと

論破したのだが、わたしは、

インターネットやスマートフォンは

みずからの本能的な存在感覚を抹消する、

もっといえば、みずからを殺す装置になって

いるような気がするのである。

 

 にんげん本来の存在を

みずからが、能動的に消し去っていると言ってもいい。

 

 携帯電話は、本来的なにんげんのあり方を

否定する装置であったのだ。

 

 

 ひとはすでに、現象するものの裏側を

求めることを忌避している。

なぜなら、スマートフォンをいじっていれば、

そんな煩雑なことをしないですむからだ。

にんげん「怠け者説」は、ここでも妥当するのだが、

 

 

 ひとは、もっとスマートに、さらさらと

解決できるグーグルに、さっと見られるYouTubeにと

安楽な方向に走り始めている。

 

 

 奥行を感じるような煩雑さを放棄して、

もっと手軽にゆこうよ、という現代性は

そうやって、にんげん存在を危うくしている、

ということにひとは無自覚である。

 

 

 

つまり、背後から支えてくれる「なにか」を感じない、

スマートフォン世代にとって、

もっとも、おいしい寿司ネタは、「サーモン」であるという

結論に至るのである。