レッサ―イーブル

2019/10/21
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マイケル・イグナティエフという社会学者は

「許される悪」はあるか、という問いに

「ある」と答えた。しかし、それは

「みなに周知されている悪」であると説く。

 これを「悪の最小化」、

いわゆる「レッサーイーブル」という。

 

 

水清ければ魚すまず、というけれど、

どこの社会にも世界にも、

しかたないよねっていう悪はあるが、

その悪は、だれでもが

しかたないよなという

認知された悪でなければならない、

というのがイグナティエフの言説である。

 

 

 韓国の大統領がことごとく、

辞任したあとに犯罪者に堕するが、

あれは「悪の最小化」ではなく

ただの「悪」だからである。

 私腹を肥やそうとするものに

レッサーイーブルは妥当しないのだ。

 

 

 だから、関西電力の裏金などは、

「許されざる悪」であるから、

国民が怒るのだ。

 

 

 豪雨警戒の真っ最中、愛媛県から

救助要請が出ているにもかかわらず、

「赤坂自民亭」と称する飲み会を催すというのも、

ひょっとするとレッサーイーブルである。

 ま、許されるかどうかはすこし躊躇するのだが。

 

 

 

線路が二股にわかれ、そこに暴走列車が走ってくる。

あなたは、その二股のところにひとりいて、

その列車を右に曲がらせるのか、

あるいは左か、その裁量権を有している。

右には、少人数のひと。左は、大勢のひとが暮らしている。

さて、あなたは、この列車をどうするのか。

右に曲げれば、大勢のひとの命はすくわれる。

が、しかし、そういう選択を

このわたしがしてよいものか。

まったく、しぜんのままにこの

列車を見送るのが「善」なのか。

いや、かえって、

見送って知らんぷりすることは「悪」ではないのか。

 

 

これを「トロッコ問題」といい、

フィリッパ・フットというひとが提唱して、

トムソンとか、ピーター・アンガ―というひとたちが

考察をくわえているが、

意図した結果と予見する結果とは

それがどう終始するかはわからないけれど、

意図した結果については責任はあるが、

予見する結果、

つまり、どうなるかはっきりわからないもの

については責任はない、という考量もある。

 

 

これをダブル・イフェクト理論というが、

この底にも、レッサ―イーブル理論がある。

 

レッサ―イーブルというのは、

いわゆるリスクマネージメントのひとつで、

どこだといちばん被害が少ないかの

考量である。

 

 

 

 橋下徹が、昨日、治水工事にかんし、

「治水行政はかなりシビアにやっている」と口を開く。

「都市化されている下流地域に

被害が出ないように、上流部であえて氾濫させる」と明かし、

大阪を例に「淀川が氾濫しないように

琵琶湖で止め氾濫させる、

いざというときは奈良県側で

氾濫させる」と語ったことが、

大問題になった。

 

 

 都市の命より、上流の農家の命のほうが、

軽く扱われていることを認めたことになる。

 

 

命の軽重よりも、都市の被害を重んじているからである。

 人道的にいかなるものか、とおもわれるが、

それを淡々と語る橋下氏には、

これが「レッサーイーブル」であることを

了解しての発言だったのだろう。

 で、なければ、こんなこと軽がるしく

言えたものではない。 

 

 

 

 ニュースペーパーの松下アキラという

芸人が小泉元首相の真似をするのだが、

「去年の解散総選挙はちょっと違ったね。

国民はどこに投票していいかわからないという

ひとが多かったね。

たとえれば、強盗と詐欺とスリのどれがいいか

どこだと被害が少ないかを

かんがえる選挙だったね」

 と、言って人々の笑いをとっていたが、

まさしくこれがレッサーイーブルなのだ。

 

 

 

 いまの政治も、どこの政党を選ぶのか、

というのではなく、どこがましかで

選んでいるひとが多くいるのではないか。

 われわれは、実地で

「悪の最小化」に加担しているのである。

 

 

 

 

 マイケルイグナティエフは

『民族はなぜ殺し合うのか』という書物も

執筆しているが、安倍政権が

憲法を変えて、いざ戦争だなんて

ことになったら、

こんどは、人殺しまで合法化され

殺人までもが、レッサーイーブルに

カテゴライズされたら、

それこそ未来の歴史にもうしわけないことに

なるだろう。